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意外だった最後の質問の答え

香田さんの初めて自転車を一人で乗れた時の話を聞いていて、カンナの乗れた時のことを思い出してしまった。

思い出した途端、不覚にも涙が出てしまった。この歳になると、妙に涙もろくなってしまう。

オトーサンが、私の話を聞いて涙を流してくれる。

それだけでうれしい。

やっと、私の話を聞いてくれる人が出来た。

それも、オトーサンに。

それだけでうれしい。

少なくとも、私のことを分かってくれる人が出来た。それがオトーサンであることが嬉しい。

初めて会ったのに、香田さんといると、落ちついている自分を改めて感じる。

同じ年頃の娘のカンナとはまた違った思いがする。

年の差はあるとはいえ、同じ会社の人間同士ということもあるのだろう。親しみを持って接してくれているのが、良くわかる。

私のことを、自分の父親にかぶせているのかもしれない。

「香田さんの御父さんは、お幾つですか?」

彼女は、目を伏せた。顔をしかめた。

しまったと思った。

調子に乗って、プライベートのことまで、立ち入ってしまった。

わざわざ聞かなかったら良かったと後悔した。

「亡くなりました。私が、高校一年生の時に、倒れてそのまま逝きました。銀行に勤めていたのですが、合併の問題などで、毎晩遅くなって、過労でなくなってしまいました」

「ごめんなさい。知らなくて。つまらない質問をしてしまって」

会社で見かけるオトーサンは、オトーサンと気安く呼べるような感じじゃなく、まさしく「貴島支社長」そのもの。

威厳とリーダシップを織り込んだようなスーツを着こなして、「ダンディ」と言う言葉を形に表したような感じ。

とても、私なんかが話しかけられるような存在じゃない。

それが今ここで私と二人きりで話をしている。

それも、私の話を聞いて、涙を流してくれる。
私だけに、涙を流してくれる。

私に、涙を流してくれる人がいる。

それだけで、嬉しい。

私の前には、貴島支店長ではなくて、私のオトーサン。

やっぱり、オトーサンは私が思っていた通りのオトーサン。

少年の目を持ったオトーサン。

お父さんの様に、時々私を通り過ぎて、遠くを見つめるオトーサン。

そして、私のお父さんのことを聞いて、毛を刈り取られて貧相になった羊の様に、恐縮するオトーサン。

可愛い。

やっぱり、オトーサンは私が思っていた通りのオトーサンだ。

益々好きになってしまった。

今日は、私のことをもっと知ってもらおう。

オトーサンに聞いてほしかったことを全部話してしまおう。

そして、オトーサンのことをもっと知りたい。

「ごめんなさい。銀行の合併と言うのは、大変なのですね。お父さん、苦労されたのですね」

「後で知りました。大変だったみたいです。過労死なのですけれども、銀行側とすれば、それが表沙汰になれば、重大なことになると思ったみたいです。隠そうとするために、口止め料という意味を込めたのでしょうか、莫大な慰労金を支払ってくれたそうです。お陰様で、私も何の不自由なしに、大学を出ることが出来ました。けれども、失った物の方が大きいような気がします」

一家の大黒柱の父親を失った家族に、まとまったお金が入ってくるというのはろくでもない。

お母さんが、すっかり変わってしまった。

どちらかと、言えば地味な専業主婦であったお母さんが、日に日に派手になって、毎日のように出かけるようになった。

何処に行っているのか、夜遅く帰ってくることも頻繁にあった。

ある朝、学校に行こうと玄関を出ようとした時に、場末の腐った臭いをまき散らしながら、お母さんが帰ってきた。

似合っていない若作りした派手な服と乱れた厚化粧のお母さんを見た時、終わったと思った。

お父さんがいなくなって、お母さんが壊れてしまって、この家は終わったと思った。

家を出て、一人で暮らすようになった。

だから、私の思い出は、モザイク模様のジグソーパズルのように、欠けてしまっている。


香田さんに何か惹かれるものを感じる。

もっと、彼女のことを知りたい。

どうしてだろう。

楽譜通りに歌うように正確に音を発する声か。

それとも、近頃の若者にはない背中をピンと伸ばした姿勢に現れる礼儀正しさか。

厚い眼鏡の中の神に救いを求めるような澄んだ目か。

探せば探すほど、まだ彼女の魅力があるように思う。

開演のブザーが鳴った時のように、期待に胸が膨らむ。

黒いカーテンの向こうに、思いもよらない世界が待ち受けているのかもしれない。

さあ最後に、勇気を出して一歩踏み込もう。

「一つだけ聞いていい。香田さんは、音楽をやっていたの?」

彼女は、今度は目を伏せない。

意外だった。

あの立ち飲み屋で隣にいたヤマギシという若造の言っていた「コーダミツキ」とは、全くの別人だと思っていた。

むしろ、別人であって欲しいと、今は思う。

香田さんは、私の目をじっと見る。

お互いに無言で見つめ合ったまま時が流れた。

店内に流れていたBGMが聞こえなくなった。

遠くで、キッチンで蛇口から水を流しっぱなしでせわしく皿を洗っている音が聞こえてくる。

どうして、オトーサンは、私がバンドをしていたことを知っているのだろう。

辞めたのは、随分前だし、会社の面接の時も、入ってからも、誰にも話をしていないのに不思議だ。

絶対おかしい。誰にも話をしていないのにオトーサンが知っていること自体がおかしい。

これは、夢なのだろうか。私の空想が、現実を捻じ曲げてしまっているのだろうか。

そう、私はオトーサンにそもそも声を掛けることなんか、出来ないはず。

現実じゃないんだ。

目の前にいるオトーサンは、私が作り出した空想の中の人物なのかもしれない。

お父さんの生まれ変わりを私が勝手に作り出した偶像なのだ。

でも、夢でもいい。

オトーサンが私の目をじっと見つめてくれる。

視線が私を通り過ぎない、私を見てくれる人がいる。それだけでいい。

私が作り出した偶像でも私を見てくれる人がいれば、それだけでいい。

「はい。昔バンドを組んで活動していました」

意外な答えだった。

社員の香田美月は、飲み屋で隣り合わせになったミュージシャン崩れのヤマギシというお調子者の若者の言う「コーダミツキ」だったのだ。

「唐突な質問で、ごめんなさい。会社の近くの飲み屋さんで、ヤマギシと言う若者に会って聞いたものだから」

「ヤマギシ君に会ったのですか?」

急に彼女の目が、輝いた。

私を見つめている目が、私の身体をすり抜けて行った。

その時、初めてヤマギシという若者に対して、嫉妬を感じた。


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