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短編小説『眠れない夜』

綺麗な満月だ。
眠れないので、カーテンを少し開けて、ずっと見ている。
左手に繋がれた点滴の管のせいで寝返りが出来ない。
点滴の袋から漏れる深海の底から湧きあがって来るような空気の塊の音。
電源を切り忘れたオーディオから出るような重いがずっと微かに振動している空調の音。
遠くで鳴っている救急車のサイレン。
苦痛に耐える患者のうめき声。
ナースコール。
廊下を慌ただしく行き交う足音。
金属の擦れる音が、神楽鈴のように聞こえるワゴンを引きずる音。
一晩中騒がしくて眠れない。
差し込む青白い月の光。その光だけが音を立てずに清らかだ。

香田美月。
こうしていると彼女の事ばかり思い出される。
今頃どうしているのだろう。
一ヶ月も経っていないが、随分昔のように感じる。月の光の中、私の腕の中で彼女は眠っていた。今では、それが、幻想であったように感じる。
私は過ちを犯したのだ。
神の怒りに触れたのだ。
一線を越えていないとは言え、妻以外の女性、しかも自分の娘と同じくらいの若い女性と一夜を共にしたのだ。
私は負けたのだ。
香田美月の美しさに負けたのだ。
澄んだ清らかな声。
白い肌。
愁いを帯びた黒い瞳。
守ってあげないと崩れ落ちる穢れのない心。
どうして私の前に、いたいけな子羊が差し出されたのだ。
私はその試練に打ち勝つことは出来なかった。
私は自分に負けたのだ。

香田美月。
彼女の事を思い浮かべると、胸を掻きむしりたくなるほど苦しい。切ない。
もう一度会いたい。
いや、こんな哀れな姿は、見せたくない。
彼女を純粋に深く思うほど、境界線を越えてしまったのだろうか。
私の過ちが、自分の身体を蝕み、運命を縮めてしまった。
手足は干からびて、頬はこけ、目は落ち込み、見る間に老人のようになってしまった。
これが代償なのか。
これが報いなのか。
あまりにも非情過ぎる。

ライブ中に、妻の美由紀が席を立って急に泣き出した。
『木蓮の涙』が始まってすぐだ。
私は、この歌の歌詞を知っているだけに、不安を感じた。
翌日一緒に名古屋に帰って、病院に行った。
直ぐに検査のために入院した。
検査の結果が出た。
若い医師は、最初は淡々と検査結果を報告していたが、内容が段々と深刻なものになって行くにつれて、うっすらと涙を浮かべだした。
書類を持つ手が、震えていた。
その様子を見て、私は確信した。
私の命の期限が迫っているのだ。
長く生きられないのだ。私は死ぬのだ。
楽観的な考えを持つことを否定されるような説明が長々と続く。
絶望的な内容が事細かに書かれている死ぬことへの契約書のような承諾書が何枚もあって、すべてに署名を入れる。
そばに美由紀がいて、大阪に来たような取り乱した態度は見せずに気丈に振舞っていてくれている。
説明をしてくれている若い医師も、事務的な作業の中に、時折覗かせる自分の父親に言い聞かせるような思いやりを感じる。
それらが、救いだった。
直ぐに治療がはじめられた。
化学療法という名の償いが課せられた。
償いが、私の身体にこれでもかと言うほどに流し込まれる。
それほど私の罪は重いのか。

眠れない。
目を閉じて闇に吸い込まれるのが怖い。
月の光だけが、私の心を癒してくれる。
香田美月の部屋で食事をした時のキャンドルの炎の光のように、私の心を照らしてくれる。

ああ、香田美月。



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