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時代小説『龍馬が月夜に翔んだ』第26話「若武者の顔の傷あと」

ゆっくりと階段を上った。狭い急な階段なので、先を行く服部武雄が三段も上がると、小柄な藤堂平助は服部の背中ばかりで、全く視界をふさがれてしまった。

二階に上がると、すぐに襖があり藤吉が片膝を立て、それを開けた。

六畳の間で、誰もいないが、行灯がともっており真ん中に文机が置かれている。

今まで人のいた気配がしている。

藤吉は中に二人を案内し、開けた襖をそっと閉じる。

そして、足元の文机に注意を促しながら、すっと先に回り、閉じられた奥の間の襖の前に正座した。

藤堂は、服部の背中越しに見える襖絵があまりに見事だったので、前に出て襖絵を眺めた。

それは、金箔地につがいの鯉を左右の襖一枚に堂々と描かれていた。

両脇の書かれた菖蒲の勢いのある筆遣いと、生き生きとした葉の緑色が見事であった。

つがいの鯉が行灯の揺らめく光を受けて、あたかも春の光を浴びた温かい水面を優雅に泳いでいるように見える。

「高台寺、御陵衛士様のお二人が来られました」

藤堂は、藤吉が伺いを立てているのを上の空で聞いていた。

それほど、藤堂は、この襖絵に見入っていたのである。

大きい黒鯉が書かれている片方の襖を藤吉はゆっくりと開けた。

緋鯉が書かれているもう片方の襖は、ひとりでにすっと開いた。


実は、これは中岡慎太郎が開けていた。

この奥の部屋は、火鉢を挟んで北側の床の間の前に龍馬が座り、南側に慎太郎が座っていた。

突然来た訪問者の不意の侵入に備えて、龍馬は出入り口の東向きに急遽座り直し、入ってくる物は誰でもすぐ拳銃を向けられるよう体制を整えた。

一方、慎太郎は丸腰だったので、龍馬から脇差を借りて腰に差した。そして、龍馬の拳銃の邪魔にならないように入口東側の隅に移動して、身を潜めた。

だから、慎太郎は襖の開けるのを手伝うことが出来たのである。


襖絵に見とれていた藤堂は、襖が開いたのも気づかないのか、呆然として立ち尽くしていた。

その姿は、歌舞伎で幕開けと共に登場した若武者のような容姿に見えた。それは、一枚の浮世絵になるほどの見事な姿であった。

一点を省いて。

藤堂は、色白細面の端正な顔だが、眉間に池田屋で斬られた時の傷が痛々しく残っている。

その傷さえなければ。

つづく


前編
時代小説『龍馬が月夜に翔んだ』第25話「元力士の応対の仕方」|大河内健志|note


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