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連作短編小説「天才左甚五郎の片りん」『白木の棺』

「どんなに緻密な計算をしていても、誤差が出てくるものだ。五十分の一の模型でさえ、これだけの誤差が出るのだ。実際の建物になるともっと誤差が出る。誤差は出るものなのだ。それを承知で、埋め合わせをして行くのが大工の仕事だ。心して掛かってくれ」

主人は、棟梁をはじめ皆の大工がいる前で、話しました。

私が言うのもおかしいですが、主人も立派になったと思います。

私の父の組に入って来た頃は、おとなしくて無口な子供やったそうです。

しかし、父は早くから、この子は立派な大工になると、見込んでいたそうです。修行の手始めに、刃物研ぎをするのだそうですが、群を抜いてその研ぐ音が、小気味よくて、乱れがなかったそうです。父くらいになると、研ぐ音を聞いただけで、刃先の出来上がり具合や、将来の腕前まで分かる者やそうです。

十年もやっている者でも、出せないような音を出していたのやそうです。

改めて、父の見込みは、間違っていなかったのだと思いました。

その父も、常々申していたのは、「木は、生きているのや。山から切り倒して運んできて、皮を剥いで削っても、生きてはる。ずっと生きてはる。千年も二千年も生き続けてはるのや。それを見越して、材木と向かい合わんといかん。我々は、千年先のことまで考えて仕事をしないといけない」ということです。

先程主人が言ったのも、それと同じようなことではないでしょうか。

父の言ったことを、今どきの若い人に言っても、何も通じません。

ですから、今どきの若い人にも通じるように言ったのでしょう。

昔の人は、言われたことを何年もかかって、自分の身体に染み込ませて分かろうとしていましたが、今の若い人らは違います。何事にも理屈が必要なのです。

理屈を言わないとついてこないのです。昔と随分変わってしまいました。

主人も、今の若い人には、随分手を焼いているみたいです。

まあ、甚五郎のようにそれなんかも飛び越してしまって、別の世界にいるような人間もいます。

ちょっと、甚五郎の書いている帳面をのぞいてみますと、細かい数字がびっしりと書かれています。

私が覗いても、全く知らん顔です。

右手は普通に筆を持って書いていますが、左手にも細筆を持って、右で書くのと同時に、左で朱の色で数字を入れてゆくのです。

左手で書かれた朱の文字が篆書の様で、それはそれで趣があります。

甚五郎の筆が急に止まって、私と向かい合う形になりました。

目の前に私がいるのに甚五郎は、素知らぬ顔です。

目は、宙を漂っています。

暫くするとまた帳面に、せっせと書いていきます。

天才とは、甚五郎のような人を言うのでしょう。

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