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短編小説『キスで魔法が解けたのかしら』

改めて、オトーサンの横顔を見る。

微かな明かりにも左右されない彫刻の様な彫の深い顔。皺や目の下のたるみが強調されていて、実際よりも老けて見える。疲れているけど、凛とした老人のような表情。私の本当のお父さんも生きていたら、こんな風に年を取っていたのかな。

私も食べてみる。

あれ、私も味がしない。どうしてだろう。随分だしも工夫したのに、このお味噌汁、どうしちゃったのかしら。こうやってキャンドルの明かりの中で、オトーサンと二人きりで食事をするということ自体の感動が大きすぎて、味覚の方にまで回ってこないのかもしれない。

でも不思議。

オトーサンと目が合った。その目には、キャンドルの炎が映し出されている。その目は、優しいぬくもりと少年のような透き通った光が出ている。いつも電車の中で見るオトーサンの目とは違う。

初めて見る目。

今日の視線は、私をすり抜けてゆかない。私のところで止まっている。そして私の心の奥に突き刺さっていくような気がする。穢れのない純粋なもの、清らかなものが入ってくるような気がする。

古い洋画家が描いた老人の肖像画のように見えるオトーサン。

何か近寄り難いような威厳を携えている。父さんの存在よりももっと前、私が生まれるよりも前の記憶。私という存在の元になっている原風景のところからオトーサンは私の中にいるような気がする。

なぜだろう。キャンドルの明かりには、不思議な力があるのかしら。

ミニーちゃんのコップの内側についたスパークリングワインの小さな泡が、次々に剥がれてゆらゆらとコップの中を上って行く。そして水面でプチっと微かな音を立てて弾ける。

小さな泡は、それぞれ微妙に光の受け方が違うので、みんな違う顔を持っている。それが次々に生まれては、プチっと小さな叫び声をあげて消えてゆく。美しいけど、悲しい。美しすぎて悲しい。

私は、思わず愛おしくてコップを手に持って、一口飲んだ。

泡が滑らかなひと固まりとなって山間の清流のように舌先から喉に流れ落ちた。泡の一つ一つが、私の口の中でメッセージを残しながら通り抜けた。

「ああ美味しい」

「あっ」

オトーサンが小さく叫んだ。

どうしたの?

「乾杯をするのを忘れていた」

「ごめんなさい。私、先に飲んじゃった?」

よっぽど、私のリアクションが面白かったか、オトーサンは、声を上げて笑い出した。

「いいよ、いいよ。では改めて乾杯」

「ちょっと待ってください。グラスをこういう風に持って」

私はミニーちゃんが正面を向くようにグラスを持ち直して、オトーサンのもミッキーが正面に来るように持ち直してあげた。

「ミッキーとミニーちゃん柄を合わせて、乾杯します。ではカンパーイ」

さすがに、「ミッキーとミニーちゃんがキスします」と照れくさくて言えなかった。

グラスを合わせると、こつんと鈍い音を立てた。あまりにも、期待外れだったので、かえって可笑しくなった。

私も、声を出して笑った。

それにつられるように、オトーサンのミッキーのグラスの中の泡と、私のミニーちゃんのグラスの中の泡が、一斉に踊り出した。

私の体の中で、この泡のように小さい喜びの粒が、じわじわと昇ってくる。

改めてもう一口飲む。

「やっぱり美味しい」

さっきの一口より美味しくなっている。なぜだろう。

味噌汁を飲む。ご飯を口に入れる。あれ、さっきは味がしなかったのに、味がする。特製のだしが効いているのが分かる。最近、圧力IH式に買い替えた違いが出ている。いつのもササニシキなのに、今日は特別美味しく感じる。

どうして。どうしてだろう。ミッキーとミニーちゃんのキスで、何かが変わった。不思議な力で魔法が解けたみたい。

今なら、いい曲が書けそうな気がする。

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