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涙が出るほど美味しい(小説『天国へ届け、この歌を』より)

こんなに美味しいきんぴらごぼうは、食べたことがない。細く丁寧に短冊に切られたごぼうの歯ごたえと脇役のニンジンのほのかな優しさが、絶妙のコントラストを描いている。
口の中で、ゴマの朴訥な味を、姿を見せないゴマ油がきっちりと存在感を示し、全体をまとめ上げている。
一口食べるごとに、口の中で音楽が奏でる。
感情がこみあげて、涙が止まらない。
美味しい。本当に美味しい。
貴島さんの奥さん。まさかあんなところで出会うなんて思わなかった。
まだお父さんが生きていた頃のお母さんにどこか似ている。懐かしい感じがした。

オートロックの玄関のインターフォンが鳴る。宅配便が来たのかなと思ったら、先程出会った貴島さんの奥さんの顔がモニターに映し出されていた。
その後ろで、恥ずかしそうに微笑む貴島さんの顔。
「おかずを作り過ぎたから、持って来ちゃった。食べてくれる」
さりげなく言われた。
まだ会ってから、それほど時間が経っていないし、貴島さんの部屋とここまでは随分距離があるから、自分たちが食べる前に持って来て下さったのに違いない。
一階まで降りて、受取りに行った。
小さな紙袋に入った、きんぴらごぼうとだし巻き卵が入った二つのタッパーウェアーの温もりに、奥さんの優しさを感じた。

嫉妬。
貴島さんの目が奥さんに会ってから変わった。貴島さんの目は、貴島支店長でも、オトーサンでもなくなっていた。
お父さんが岡山の実家に帰った時と同じ目。
安心感に包まれて母親に接する時のように甘えを潜ませた目。初めて見た。
貴島さんが遠くに行ってしまった。
お惣菜のいっぱい詰まった奥さんの持っているレジ袋を見た時に、私の空想は絶たれた。
レジ袋をしっかりと握られている年輪を重ねている手と突き出ている泥のついたごぼうに現実を感じた。
キャンドルの明かりに照らし出された優しい貴島さんの顔がかき消されてしまった。

孤独。
貴島さんがそのレジ袋を持って上げた時に、私は独りになった。
貴島さんも現実の方に行ってしまって、私だけが取り残された。
貴島さんと買い物をして、夕焼けを見ながら帰る。
そして今夜のために新しく買ったエプロンとランジェリー。
それなのに、貴島さんは行ってしまった。
仲良く肩を並べて帰る二人の後ろ姿をいつまでも見送っていた。
涙が溢れてきた。

寂しい。
紫に染められた空がこんなに寂しく見えたことはなかった。
家に帰ったけれど、気が抜けたみたいになって何もする気が起こらない。
私は、部屋を暗くしてキャンドルに明かりを灯した。
テーブルに座って、目を閉じた。瞼にキャンドルの炎の揺れが感じる。切ない。どうしようもなく切ない。
知らない間に歯を食いしばって唇を噛みしめていた。目頭が熱くなって、閉じた目から零れ落ちる。寂しい。どうしようもなく寂しい。零れた涙が、キャンドルの明かりに照らし出されているみたいに熱い。

こんな思いをするくらいなら、奥さんの誘いを断らなければ良かった。


そんな時に、オートロックのチャイムが鳴る。モニターに映る奥さんの優しい笑顔。その後ろの恥ずかしそうに映る貴島さんの顔。
わざわざ来ていただいて、お惣菜を届けて頂けるとは、夢にも思わなかった。

そして今、口の中で味わっている貴島夫妻の優しさ。
あの貴島さんとの夜の出来事。貴島さんに対する思い。貴島さんの奥さんの存在。レジ袋をしっかり握っていた年輪を隠せない手。
それらが、きんぴらごぼうとなって口の中で、調和して歌となる。
最後は、だし巻き卵が貴島さんの奥さんの存在が、優しく締めくくって語り掛ける。

美味しい。

私は生まれて初めて、美味しさで涙を流した。

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