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どうか助けてください! (小説『夕暮れ前のメヌエット』より)

クラブハウスのある方へ顎で示した。

若社長は、悪戯を親に叱られた子供のように急いで、逃げるように駈け出した。

沈黙が走る。

広い空間の中に私と田中の抜け殻がある。

強烈な孤独を味わう。

落ち着かなければ、冷静にならなければと思えば思う程、体が震え、金縛りにあったように硬直する。

高校時代のいつもの小津さんの横顔が浮かんだ。

突然、こちらに今までに見たことのないような形相でこちらを睨み、「人殺し」と叫ぶ。

寺町御池通の青信号が点滅して、赤信号に替わろうとした時に、小津さんは握っていた手を振りはなし、「人殺し」と交差点の真ん中で叫ぶ。

田中の葬儀が行われていて、遺影を前に焼香をしようとした瞬間、喪服を着た小津さんが前に立ちはだかって、「人殺し」と叫ぶ。「人殺し」「人殺し」「人殺し」小津さんは、記憶の中で様々に姿を変えながら、自分に向かって、その言葉を投げつけてくる。

今、田中がこのまま死んでしまうと、同時に小津さんをも失ってしまうような気がした。

二人きりしかいない緑の世界の中で、誰かに見られているような気がする。

頬を撫でるそよ風や遠くでさえずる小鳥や頭上を横切る雲の流れが語り掛けてくる。

「お前しかいない」

全く動かない田中を仰向けにして、二か月ほど前に防災訓練でやっていたことを思い出した。

あの時、若手に任して自分は見るだけだったが、まさかその場面に、出くわして、実際にやる羽目になるとは思いもよらない。

気道を確保するために枕やクッションを首の下にいれなければならないのだが、そんなものは何もない。

とっさに、両方のゴルフシューズを脱いで、差し込むが二足がバラバラになって上手くゆかない。

何かに包まなければいけない。

来ていたシャツを使おうと脱ごうとするが、手が震えてボタンが取れない。

もどかしいので、胸元に手を入れて、一気に引き裂いて脱いでそれをくるんで、首の下に入れた。

落ち着け、落ち着け、一つ一つを丁寧に正確にこなすのだ。頭の中で繰り返すが、体の震えは止まらない。

音のない真っ暗闇の世界に、私と田中の体だけが存在している。

田中にまたがって、震えの止まらない左手を右手で押さえるようにして、田中の分厚い胸板の下にある鳩尾にあて、押し込んだ。

思ったよりそれは深く入った。

田中の口からふっと息が出た。

良しこれでいける。

十回ほど押してみた。

全く反応がない。

三十回ほど押してみた。

反応がない。

頭の中を冷たい風が走る。

何度も押す。

反応がない。

パンクしている自転車に、必死で空気を入れているようだ。

今はこれしか、出来ないのだ。

私が田中に出来ることはこれしかないのだ。

田中の心臓が動き出すまで、何があっても続けよう。

戻ってきてくれ。

もう一度、目を開けてくれ。

お願いだ。

その為にも、もっと押せ、もっと続けろ。

行かないでくれ。お願いだから、行かないでくれ。

この手で、この手で、何とかしなければ。

涙か、汗か、田中の額に水滴が、一滴一滴と落ちてゆく。

これで、目を覚ましてくれ。

やがて、私の視界も、雨にもかかわらず、ワイパーを作動させないウィンドウグラスのように、水滴でかすんできた。

お願いだ。お願いだ。助けてくれ。

神様、お願いですから、田中さんを助けて下さい。

念じながら、何度も押す。

誰が何と言おうとも、蘇るまでは、押し続けるのだ。

押せ。押せ。

田中がいなくなれば、小津さんは一人になる。

一人になった小津さんは可哀想だ。

田中がこの世から、いなくなれば、小津さんを独り占めできると心のどこかで思っていないか。

小津さんと二人で寺町通を歩いている時に、邪な考えをしなかったか。

田中に申し訳ないと思った。

自分に、多少なりとも邪な部分があるためにこのような事態を起こしたのだ。

自分が、田中をこの世の中から、いなくなれば良いと心のどこかで思っているのだ。

それ故に、神は手を差しの出てくれないのだ。
            

              つづく

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