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ワダカマリという名の大きな川

「君、いい声をしているね。ルックスもいいし、すぐに人気が出ると思うよ。良かったら、一度東京に来てくれないかな。とりあえず、デモテープだけはすぐに送ってくれないかな」

楽屋に入って来るなり、いかにも業界の人らしい派手な格好をしたオジサンに話しかけられました。

後から聞いた話けれど、そう言ったお話は、他にもあったそうです。

全部ベースの須田君を通じて、対応してもらっていたみたいです。

バンドにくる話は、全然なくてみんな私だけに来るオーディションばっかりでした。

みんなに申し訳ないというより、私自身が大勢の人の前で歌うのが、苦手なので全てお断りしました。

それでも、ライブに呼んでもらって出て見たのですが、明らかに私を目当てに来ている観客が増えているのが分かりました。

私は観客の方を一切見ないで、演奏しました。

多くの視線が私に向かって来ます。

その視線の一つ一つが、針の様に突き刺さります。その一つ一つが痛いのです。皮膚を突き抜けて、体の奥にまで届きます。

それは、私の心を疼かせます。

もう、耐えられないと思いました。

ヤマギシ君を見ていて、音楽は人を楽しませるもので、私の様に自分自身に向かって歌いかけているだけでは、他の人を楽しませることが出来ないということがよくわかっています。

みんなにバンドを辞めると言いました。

みんな引き留めてくれましたが、私の気持ちが分かったのでしょう、最後は、納得してくれました。

ヤマギシ君が、何か言いたそうな顔をしていましたが、何も声を発してくれませんでした。

私は、人前で歌うのを一切やめました。

受験勉強をして、ごく普通の大学生になって音楽とはあまり縁のないこの会社に入りました。

入社してから、丸三年が経ちました。

香田美月の話を聞いていて、何か心の中に黒いもやもやしたものが残った。

それは、「ワダカマリ」と言うべきものなのだろうか。

老人が戦時中散々活躍したが、負傷して、今はその日暮らしにも不自由をしているような話と同じ様に聞こえてくる。

彼女には、どうして「ワダカマリ」があるのだろうか。

彼女を包み込んでいる目に見えない黒いベールの隙間から必死に助けを求めている気がする。

彼女は、ステージでおびえているヤマギシを救ったように、自分も、今誰かに助けてもらいたいと思っているような気がした。

でも、私はあのヤマギシのようにはなれない。

偶然飲み屋で出会った、あの気さくで陽気なヤマギシにはなれない。

いっその事、彼がこの場に現れてくれたら、全てが解決できるに違いない。

私は、ヤマギシになれないのだ。

彼女と私の間には、あまりにも大きな川が流れている。

その川には、水は流れていなくて、

「社会性、公序良俗、モラル、年齢差、男と女、社会的な地位、年代、恥知らず、妻、ED、娘のカンナ、会社、ヤマギシ、自転車、香田美月のお父さん、お母さん、香田美月・・・」

それらが、文字となって流れている。

それらは、何の脈絡もなく、ごつごつとして川面をいびつな形にしている。

茨よりも険しい困難が二人の間に、流れているのだ。

あのヤマギシなら悠々と越えられるだろう。

彼なら、それはただの文字、形式だけなのだから。

私は、彼の若さが羨ましい。

私には、男としての一番効果のある武器を失ってしまっているのだ。

ヤマギシが羨ましい。

私は、目の前の傷ついた若い女性を救うことが出来ないのだ。

そう思うと、無性に悲しくなってきた。

自分が情けなくなってきた。

自然に涙が込み上げてきた。

情けなくて、むなしくて、悲しい。

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