失ってしまった大切なもの 島崎藤村『桜の実の熟する時』の味わい方
「なんとなくそよそよとした楽しい風が将来(さき)の方から吹いて
くるような気のする時だ。隠れた「成長」は、そこにも、ここにも、捨吉の目に付いて来た。」
この作品全体に「春」が流れている。
移りゆく季節の中で、心をときめかせ、希望に胸を膨らませる春。
成長してゆく身体に反して、揺れ動く心、漠然とした不安。
やさしく包み込むような光と頬をくすぐられような、ときめきをたっぷりと含んだ風。
この作品を読んだとき、もう私はあの頃には戻れないのだと感じた。
今、研ぎ澄まされたナイフのような現実をのど元に着き付けられている。
現実をアニメ化して、デジタル加工しただけのメタバース。
何処にも心の逃げ場を見つけられない。
もう、あの頃のような「春」を感じることさえできなくなっている。
もう一度、「春」を感じたい。
そんな時に、この作品に出会った。
この作品に、「春」を感じた。
主人公の捨吉と若い頃の自分自身と重ね合わせて、私はあの頃に戻れることが出来た。
「春」をふたたび感じることが出来た。
そこは、微かに揺らぐやわらかな光と吸い込むと鼻の奥がつんとする芳醇な空気に満ち溢れている。
ふり帰るまいと心に決めていた世界。
戻れることはないとあきらめていた世界。
この作品は、それらを鮮明に復元してくれた。
現実に疲れ切っている自分自身。
心のどこかに、もう振り返ってもいいよと許す自分がいるのかもしれない。
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