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短編小説『そよ風に身をまかせて』

二人並んで歩く。

駅前の歩道橋を渡り,香田美月が住んでいる反対側の,自分が住んでいる方へ向かった。

駅に向かう人々とは、逆方向に歩いている。

私にとってそれがささやかな反抗のように思えて心地よかった。

行き交う人が振り返るような浴衣姿の美女と一緒に居ることが、勲章を与えられた兵士のように誇らしかった。

先程から、娘のカンナと一緒に歩いているような錯覚に囚われていた。

家族三人で岐阜の長良川の河川敷に座って見た花火が、今まで見た花火の中で一番感動したという話が自然に口に出ていた。

自分の住んでいるマンションの前を通らずに、わざと回り道して花火大会の見える小さな川の土手に出た。

昼間容赦なく照り付けた夏の陽の余韻はまだ残っている。

香田美月の頬にうっすらと滲む汗とそれに絡めとられて張り付く後れ毛を見た。

白い肌と絡みつく黒髪の対比は、美しさの中に潜む、危険なものを感じた。

それは自分の奥深くに潜む邪悪の存在かも知れない。

私は夜を恐れた。

夜が闇を運んでくることに恐れた。

この存在が、理性の殻を破って姿を現すのではないかと思うのだった。

彼女の鬢から、一粒の汗が零れ落ちて流れた。

彼女は、私の視線に気が付いたようだ。

バッグから縁に野イチゴの刺繍の入った真白いコットンのハンカチを取り出して、首筋から上の方へ、細かく叩くようにして拭いた。

私は、その丁寧な動きと4本のまっすぐ伸びた指の直線の美しさ、人工的な装飾をしていないピンクを帯びた天然の真珠の様な色の爪の色と、その形の優美さに目を奪われた。

彼女と視線が合った。

一瞬大人の女が見せる、咎めるような表情を見せたが、すぐに恥じらう乙女の表情に変わった。

優しい目から、細かい光の粒が放たれていた。

気が付くと、彼女の頬からは、滲み出た汗とそれに絡みついた後れ毛は無くなっていた。

後れ毛は、そよ風に身を委ねながら心地よく踊っている。

すっと清涼な風が通り抜けた。

私の中に潜んでいた悪魔は、いつの間にか消え去っていた。

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