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短編小説『あの歌をもう一度』

「香田さん、ありがとう」

力を振り絞って声を出したつもりなのに、かすれてしまって弱々しく響いた。点滴に繋がれた腕は、あまりにも重くて動かせない。かろうじて指先だけが動いた。

「お大事になさってください」

事務的な言葉に反して美月の態度が変わった。親に叱られた子供の様に、うなだれて小刻みに震えていた。

「歌を、あの歌を歌ってもらえませんか?もう一度」

声が、息に埋もれてしまってうまく出せない。人差し指がかろうじて上がった。美月に伝わったのだろうか。

美月が、私の目を見た。彼女の視線が、放射線のように私の身体に入り込んで行く。私は、美月の画像を焼き付けてしまいたいと思った。

「あの歌ですね」

美月は、目を閉じて、呼吸を整えた。急に周りの音が消えた。沈黙が続く。私も目を閉じた。
鈴の音が天井から降り注ぐように、美月は歌い始めた。

私は、美月の部屋にいる。

美月はギターを手にして歌い始めた。視線を私だけに向けられている。澄んだ歌声は、私の心を清らかにする。心の奥にある灯の存在を知る。

キャンドルの明かりに、照らし出される美月の横顔。ミッキーマウスのグラスに入れられたスパークリングワインの泡の輝き。

朝の光にさらされた美月の流れるような黒髪。その隙間からのぞく白い肌。

私の身体の中の細胞の一つ一つが蠢き始めた。

心の領域の及ばない身体の中枢から、負の試練に抗う存在がいたのだ。私の身体が、負の方向に向かうほどに、レジスタンスの結束が深まって来たのだった。

ついに彼らは手術という大決戦の前に、その姿を現したのだ。

私は、目の前の美月に女を感じた。私は、男と言うより私の中に潜む雄(オス)が頭をもたげてきたのである。私の意識にかかわらず、妻の美由紀が側にいるにも関わらず。

美月を抱きしめたい。

身体の芯が熱くなっているのに、体を動かすことさえ出来ない。生きたいという気持ちが、このような形で現れるのは、自分でも意外だった。

美月の歌が、降り注ぐ。私の身体に吸い込まれてゆく。最後の戦いに臨むレジスタンスたちを鼓舞する。

生きたい。生きたい。もう一度、美月の作った料理を食べたい。

そして、この腕の中に美月を抱きしめたい。

だからずっと、このまま歌い続けて欲しい。

お願いだから、歌い続けてくれ。

お願いだから、ずっとずっと歌い続けてくれ。


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