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武蔵の読みと誤算、小次郎の確信(後編)

武蔵は、目を閉じたままでいる。

闇夜の中にいる。


力の限り、砂の上を走る。

小次郎の顔が段々と大きくなる。

燕返しの前触れである横に払う太刀の動きがない。小次郎の太刀は大上段、頭上のまま。

それでも走る。

目の前が小次郎の顔で一杯になった。

ハッ!頭上に、稲妻。

斬られる!

思わず目を閉じる。

思いっきり足を踏ん張る。

砂の中に両足を打ち込むように、突き刺す。

体が前に飛び出しそうになる。耐える。

反り返るくらいにのけ反り、腰を落とす。

後ろの櫂の木刀の先に砂を感じる。

船頭の櫂さばき。櫂が海に突き立てられた。映像が蘇る。

一瞬、暗闇の中に稲妻が走る。

映像が割れた。

斬られた。

死んだのか。

でも、私はここにいる。

闇夜の中にいる。

音が消えた。時が止まった。

海が鏡のようになった。

無になれた。

暗闇の海に漂う小舟となった。

櫂の木刀に身をゆだねる。

櫂の木刀が砂の海を食んだ。

すうっと、身体が浮かび上がってくる。

遅れて櫂の木刀の先が、砂の水面から起き上がってくる。

反動で身体が、お辞儀をするくらいに前のめりになる。

遅れて櫂の木刀が弧を描いて振り出される。 

放物線が一番高いとこらから、下りだした途端、掌に櫂のつるつるとした感覚が伝わる。

船頭が左手一つでの、巧みな櫂さばきの映像が蘇る。

櫂の木刀が手から擦りぬけて飛び出してしまうかと思ったその瞬間、櫂の一番上の出っ張りに当たる感触があった。

これを感じたら、手の内を絞めろ。

それだけを自分に言い聞かせてきた。

全身の力を手の内に集中して締め上げた。

「カン」と高い音を立て、木刀がはじかれた。

仕損じたか。

小次郎の手にしている真剣が受け止めた手ごたえではない。

木刀で受け止められたような感触。

小次郎は真剣を持っていたはず。

おかしい。

目を開ける。

小次郎が首を傾げていた。

刀を両手でだらしなく開いて下げ、何か考え事をしているような間の抜けた様子。

よく見ると、小次郎の左側頭部が陥没していて、見る間に血が流れ出した。

木刀ではじかれたのではなく、見事に小次郎の片面を捉えていたのだった。

武蔵は、すかさず右手で顔をぬぐった。

手に血はついていない。

額に手を当てた。

鉢巻はなくなっている。

手の平には、僅かに血が滲んでいる。

かすり傷?

胸元を見る。

陣羽織の紐が斬られて、袷まで開いてしまっている。

慌てて手で胸をまさぐる。

血はついていない。

斬られていない。

いや、斬られたが肉まで届いていないだけだ。

戸惑いの目をしている佐々木小次郎。

ゆっくりと膝から前のめりに倒れ込む。

一刀両断、斬り下ろす。

むぅ、手応えがない。

突進してきた武蔵が急に身体をのけ反らせ、砂の中に沈み込むようにしてかわした。

一太刀で仕留めることが出来なかった。

しかし、小次郎には、まだ心に余裕があった。

武蔵は、小次郎の間合いに踏み込んで入っているが、彼が打ち込むことが出来る間合いには入っていないからだ。

愛刀備前長船は三尺三寸、武蔵の木刀はせいぜい二尺五寸もあるまい。

一足分の距離の違いがあれば、武蔵の木刀は届くわけがない。

たとえ、体当たりを食らわそうとしても、こちらは左足を前に出した半身になっているので、容易にかわすことが出来る。

小次郎は、前かがみになった体勢を立て直しながら、太刀を左に引いて自分の目の高さと同じ位置にある武蔵の左の鬢をめがけた。

まさに斬ろうとしたと時、砂の中に沈み込んでいた武蔵の身体が見る間にまさに伸びあがる。

武蔵が、急にせりあがる。

左の鬢を狙うつもりが、左袈裟になり、左胴になった。

腕共々、斬って仕舞えと思った瞬間、武蔵の腕が上がり、左胴ががら空きになった。

今だ。そこへ斬り込め。

その刹那、目を閉じたままの武蔵が力なげに打ちこんでくる様子。

待て。どうせ届くまい。

充分に見切ってから、武蔵が死に体になったところを確実に仕留めよう。

小次郎は、一瞬愛刀備前長船を止めた。

武蔵の木刀がやってきた。

小次郎は、緩やかな放物線が目の前を上から下に通り過ごすのを待った。

むぅ、それは落ちない。

一直線に自分の頭に向かって来る。

なぜだ。

再び愛刀長船を走らせようとした瞬間、そこで小次郎の思考は停止した。

小次郎は、首を傾げ膝から崩れ落ちた。

目を開けた武蔵には、不自然に手足を折り曲げて、横たわる小次郎の姿と、彼に燕返しで斬られた親燕の姿が重なり合って見えた。

「お見事、勝負あり」

武蔵は、いつの間にか来ていた立会人らしい者の声で我に帰った。

勝ったのか。

勝負に勝ったという実感はない。

ただ、生き残ることができただけだ。

武蔵は、中段の構えを大きく開いた左星眼の構えをとり、いつでも反撃ができる体勢を崩さないままに、ゆっくりと膝を折り、歪な格好で横たわる小次郎の血潮にまみれ、白眼だけがやたらに目立つ顔に近づき、息を窺う。

かすかに息があった。

武蔵は気を緩めず、ゆっくりと立ち上がった。

構えを解かず、起き上って反撃をすることが出来ない様子の小次郎に対して、隙を作らない。

小次郎を見据えたままでいる。

ゆっくりと後ずさりして行く。

その姿は、背にしている真紅に燃え上がる太陽の揺らめく炎を受けて、まるで武蔵自身が燃えているように見える。

宮本武蔵は勝ったのだ。

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