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悲しくて辛くて言えない(小説『天国へ届け、この歌を』より)

裕司の病気のことを話せない。
一刻も早く言わないと分かっている。
でも言えない。
言った途端に裕司が遠くに行ってしまうような気がしたから。
私は、動揺し苦悩する裕司の姿を見たくない。分かっているのに言えない。
辛い。
どうしようもなく辛い。
何十年かぶりに、レジ袋を裕司に持ってもらって帰り道を一緒に歩いた。
若い頃の裕司の面影が垣間見ることが出来た。ありがとう香田さん。
別れ際の悲しい顔が気になった。
気になってどうしようもなかった。
だから、作った惣菜を持って行ってあげた。
裕司が彼女の住んでいるマンションを知っているのには、正直驚いた。
バスルームの黒髪は、香田さんの物だったのかしら?
私は裕司のことを一番よく知っている。
香田さんに惣菜を持っていくと言い出した時、裕司の顔にあの頃の優しい面影が浮かんだ。
娘のカンナと接する時の目になった。
どんないきさつがあったのかしれないけれど、香田さんには、感謝している。
帰り道、私たちはまだ結婚していない、若かったころのように手を繋いで歩いた。
いつまでもそうして歩き続けたかった。
その時も、言えなかった。言い出せなかった。裕司が今の裕司でなくなるのが怖い。
遠くへ行ってしまうかもしれないことが辛い。だから言い出せなかった。
色んな感情がせき止められていて、一気に溢れ出ししまいそうで怖い。

スターダストレビューのライブが始まった。
あれ程楽しみにしていたのに、今は苦痛でしかない。
ステージが華やかで盛り上がるほどに、苦痛は増してゆく。
溢れ出そうになる。
隣の席の裕司の手を握りしめて必死に耐えた。
ステージが真っ暗になり『木蓮の涙』のイントロが始まった。
旋律に胸をえぐられて涙が溢れ出てしまった。ボーカルの根本要さんが歌い出した。
身体が震え出した。
歌詞が怖い。これから先を聞くのが怖い。
今の私には、耐えられない。
震えが段々と大きくなって行く。
お願い、これ以上歌わないで。
辛すぎて、耐え切れなくて、席を立った。
逃げるように出口に向かった。
背中を突き刺さすように『木蓮の涙』が追いかけてきた。
ロビーのソファーに突っ伏して、泣いた。
ロビーにまで追いかけてきている『木蓮の涙』を振り切るように声を上げて泣いた。
突然後ろから、真冬に毛布を掛けるように抱きしめられた。
裕司の匂い。
裕司の温かさ。私の手の甲に涙が落ちる。
大地に染み込む大粒の雨のように私の手の甲の細かい皺に染み込んで行く。
耳の後ろに温かいものが落ちた。
次から次にと雫が落ちてきて、頬を伝って、唇を掠める。温かい。裕司の涙。裕司も泣いている。
このままずっと裕司に包まれて、赤子のように大声を上げて泣いていたい。
裕司が強く抱きしめてくれた。

「帰ろ。今すぐ一緒に帰りましょ、裕司」

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