嗅覚低下を予防する「余薫」から考える:香りと健康、コミュニケーションの関係性
山田:今回は慶應SDMのKEIO EDGE LAB "CREATIVE LOUNGE"にお邪魔して、お話を伺っていきたいと思います。まず、今回のプロジェクトの全体像について改めて説明していただけますか。
伊藤:はい。一言で言うと、嗅覚低下を予防する習慣型トレーニングシステム「余薫」を制作し、イタリアのミラノサローネに出展するプロジェクトでした。最初に、余薫をお見せしたほうがわかりやすいですかね。
山田:そうですね、ぜひお願いします。
山田:おお! 見た目にもインパクトがありますね。
伊藤:ありがとうございます。余薫は、膨らんでくるシャボン玉の香りを意識して感じ取ることで、嗅覚トレーニングができるプロダクトです。
また、習慣的にトレーニングを続けていくために、遠くにいる誰か気になる人と一緒に使うことを想定しています。香りのやり取りを通じて相手に想いを馳せ、緩やかなコミュニケーションを実現するというコンセプトなんです。この点は、後でまた話題になるかと思いますが、山田さんに教えていただいた香道の文化から強くインスピレーションを受けています。
なぜ嗅覚の衰えに着目したか
山田:見た目もコンセプトも、大変興味深いプロダクトだと思います。気になるのは、そもそもどういったところから「余薫」のアイデアが出てきたのかというところです。
中島:最初は大学院のプロジェクトでしたね。
伊藤:そうですね。慶應SDMには、白坂成功教授、五百木誠准教授を中心とするシステムデザインメソドロジーラボという研究室があります。そこでは院生がチームを組んでプロダクトを制作し、審査に通るとミラノサローネに出展できるという自主プロジェクトがあるんです。私は入学直後からこれをやりたいと思っていたので、専門性があって、一緒にやれそうな仲間に声をかけて制作が始まりました。
山田:なるほど。最初から香りというテーマは決まっていたんですか?
中島:いえ、最初は特にテーマも決まっていなくて、ゼロから考え始めました。もともと慶應SDMでは企業と協力して実施している授業があり、企業側から課題を与えられてそれを解いていくというスタイルはメンバー全員が体験済みでした。それに対して、このプロジェクトは自主的に立ち上げたものなので、どんな課題を解くかが決まっていません。ですから、それぞれの興味を掘り下げたり、大学院進学の動機からお互いに話し合ったりしながら、なにをやろうか考えていきました。
伊藤:チームメンバーのバックボーンがかなり違っていて面白いんですよね。私と中島はIT系ですが、デザイナーもいれば、キャビンアテンダントの人材育成をやっていた人、顕微鏡を製造する会社にいた人まで(笑)。
中島:そうそう。そうしたメンバーで話し合っていくうち、共通の関心があったのがヘルスケア領域でした。しかし、このチームにはいわゆる医療の専門家がいるわけではありません。そこで既存の医学系の研究がまだあまり進んでいないところのほうが価値を出せそうだと考えました。
そこで思い至ったのが、健康寿命という概念です。自分たちは老いに対してどんな考え方をもっているか、どんなふうに歳を重ねていきたいかと議論を深めていくうち、特に感覚器官の衰えに関心があることに気がつきました。
山田:なるほど。五感のなかでも嗅覚に着目したのはどうしてですか?
伊藤:私たちが得意なテクノロジー分野との関連に目を移してみたとき、感覚器官のなかでも嗅覚にはあまり手がつけられていないことに気がついたからです。とりわけARやVRのような五感を拡張するようなテクノロジーを見ていると、視覚や聴覚のサポートに関心が集中しているんですよね。嗅覚は、そうした議論の中心からは外れていたんです。それが興味をもった理由のひとつです。
中島:それから、知り合いの医師に嗅覚と医療について聞いたときにも、嗅覚は医学では研究があまり進んでいない領域なんだという話がありました。視覚が衰えて文字が読みづらくなってしまったり、聴覚が衰えて人の話を聞き取りづらくなってしまったりすることと比べて、嗅覚の衰えは直接的な不便を感じづらく、健康に直結しづらい感じがする。だからこそ、私たちがチャレンジする余地があるのではないかと。
伊藤:私たち自身も、この研究を始めるまでは、嗅覚の衰えを意識したことはほとんどありませんでした。そこに手を差し伸べたいなと。
香道体験から学んだこと
山田:私たち香雅堂については、そうして話し合ったりリサーチしたりする過程で知っていただいたんでしょうか。
伊藤:嗅覚をテーマにしようと決めてリサーチを進めるなかで、香りにかんする文化ということで香道に興味を抱きました。そのなかで香雅堂さんに連絡をさせていただいて、私たちの話を熱心に聞いてくださって心を打たれました。
中島:私は小さい頃から香道を知っていて、憧れがあったんですよ。ただ、品位があり敷居の高いようなイメージがありまして、なかなか関わるきっかけがないなと。山田さんとお話したとき、オープンな姿勢が印象的でした。香道としてのしきたりや慣習に精通しながらも、香りを取り巻く文化全体にポジティブにアプローチしている感じがして相談しやすかったですね。
山田:お褒めの言葉をありがとうございます(笑)。もちろん香道は大切なんですが、いろいろな文化やアプローチに対して自分たちを開いていくように意識しています。特にコラボレーションをするときは、柔軟に考えたいなと。
伊藤:それから、体験香席に招待いただいたことも大変嬉しかったです。みんなで香席の場を体験できたことは、プロジェクトにも大きな意味がありました。まず驚かされたのは、香席は文字通り「香りを介したコミュニケーションの場」だということです。
山田:そうですね。皆さんに体験していただいた「組香」は、わかりやすく言うと香りを聞き分け、当てる遊びなんですが、なぜそれをするのか考えると、香りを媒介としてコミュニケーションすることなんです。かつてそのコミュニケーションは、武士たちが政治的なやり取りをするためにおこなわれていたものかもしれません。今ではそういった目的は少なくなりつつありますが、同じ場を共有し、コミュニケーションすることの重要性は変わりません。
伊藤:興味深いです。それから、香りに気持ちや思いを込めるという点も参考になりました。
山田:なるほど。ホストがゲストのことを考えながら組香や香木を選ぶというあたりですよね。源氏物語が好きなゲストがくることをかんがえて「源氏香」という組香にしたり、ちょっとかたいですが主賓をイメージした香りのする香木を選んだりと、ひとつひとつのチョイスにコミュニケーションの要素が含まれています。
中島:私たちも香道において香りを聞き分け、記憶するために情景を言語化するところが興味深く感じました。香りについて直接的に語り合うのではなく、香りを通じて間接的に語り合っているわけですよね。その部分を概念化して、プロダクトにつなげたいなと。
伊藤:それから嗅覚にかんする論文をいろいろ読んでいて、香りを嗅ぎ分けることがトレーニングになり、嗅覚を改善できるという研究を知りました。香道体験の香りの聞き分けにもつながる話だなと。それでみんなでひたすら周囲のものを嗅いで記録する「くんくん生活」という実験を一週間をやったこともありました(笑)。
中島:ありましたね(笑)。その頃は嗅覚がどういうものか考えるために、ちょっとした実験をたくさんやっていました。嗅覚をなくしたらどうなるかということで、鼻にティッシュを突っ込んで生活してみたり。
伊藤:生活シーンと香りの関係を考えたくて、「歯ブラシを取ったら都度連絡するので、連絡を受け取ったらミントの香りを嗅いでね」みたいな感じで香りにかんする指示を与え合うアクティビティもやってみました。メンバー同士で香りを贈り合っているようなものですね。終わったあとに少しさびしい気持ちになったところが印象的でした。
こうした取り組みを経て、香道のように香りを通じてコミュニケーションすることの重要性、それによってコミュニケーションが続きあうことの面白さ、嗅ぐ行為そのものが嗅覚の訓練になること、といった気づきを得ることができました。
余薫のプロトタイピング
山田:そうしてテーマが決まって、いよいよプロダクトづくりに入るという感じでしょうか。
中島:そうですね。嗅覚の衰えにアプローチすることを決めてからさらに議論をしていくなかで、「香りをコミュニケーションの媒介にする」、「緩やかなコミュニケーションを通じて嗅覚のトレーニングを継続させる」という柱となるコンセプトがみえてきました。
私たちの中間目標はミラノサローネへの出展だったので、じゃあどういうものを出そうかなと。ミラノはモノそのものよりも体験を重視する展示会ですから、私たちの考えたコンセプトを体感できるようなプロダクトをつくりたいと思って、具体化の方向性を考え始めました。
伊藤:余薫にたどり着く過程で、さまざまなプロトタイプをつくりました。最初は灯油ポンプを使った手をかざすと匂いがする装置なんかをつくっていました。100円ショップに自動でシャボン玉を生成する機械があったので買ってきて、カレーの匂いがするシャボン玉をつくってみたり(笑)。でも、なかなかこれだという答えを見出すことができませんでした。
そのタイミングで、デザイナーで慶應SDMでも教鞭をとられている田子學先生とお話をする機会がありました。田子先生は「カレーのシャボン玉おもしろいよ」と言ってくださって。弾けたときに香るという体験がいいし、香りがシャボン玉として可視化されるところもおもしろい、それに始まりと終わりが明確だし、香りの儚さや切なさとシャボン玉の相性もいいねと。話をするなかでシャボン玉そのものが重要なのではないかと気づかされて、体験の軸が定まりました。
山田:おもしろいですねえ。最初に余薫のことを伺ったとき、私もシャボン玉は絶対に相性がいいだろうなと感じました。おっしゃるように、だんだんと膨らんでやがて消えるというシャボン玉の性質は、まさに香りと似ているように思います。
最初のプロトタイプから実際に出展したものまで、この工房ですべて制作したんですか?
伊藤:そうですね。本体も中に入っているパーツも、そこにある3Dプリンタを使って出力しました。3Dデータをデザインすれば、それをもとに樹脂を積み上げて形を生成してくれます。近づくとシャボン玉を生成する仕組みは、Arduinoとセンサーを用いました。
山田:すごい! 樹脂で作られているとのことですが、見た目の雰囲気は樹脂っぽくないですよね。
中島:そうなんです。いかにも樹脂でできている感じにはしたくなかったので、本体の表面には漆喰を塗って仕上げています。漆喰は指で塗ったので、ムラも見えますけどね(笑)。
それでも最終的には学内での選考も無事通過し、ミラノサローネに行くことができました。
ミラノサローネに行ってみた
山田:ミラノサローネの特徴はどういうところにあるとお考えですか?
伊藤:ただ作ったモノを紹介するだけではなく、モノの裏にある物語やコンセプト、コンテクストをしっかり考えて、展示でその空間や体験を味わってもらう。プロダクトを通じて、ライフスタイルを提案する。そういう展示が多いところが最大の特徴かなと思います。
これは私たちが所属する慶應SDMで大事にしている、モノよりも全体的なシステムや背景、「なぜそれをつくるか」にこだわる学問的な姿勢にもつながると思っています。だからこそ出展したかったという思いもありますね。
山田:なるほど。プロダクトとしては、ちょっと変わった印象を与えるようなものが多くなるんですかね。
中島:そうです、「パッと見ではなにをしたいかわからないもの」がほかの展示会よりも多かったと思います。余薫もそのカテゴリに入っているので、相性がいいなと思います。
山田:実際に体験した方々の反応はどうでしたか。
中島:反応は非常に良かったですよ。まず通りかかるとセンサーでシャボン玉が膨らむところに驚きますよね(笑)。それで近づいてみると匂いがしてまた驚く。そして最終的に「これってなにをするためのプロダクトなの?」と尋ねられる。だいたいこの流れでしたね。
伊藤:最初は訝しげに近づいてきて、一通り体験したあとに「アンビリーバブル」、「ジーニアス」といった言葉を投げかけてくれた方も何人かいましたよね。嬉しかったし、とても印象に残っています。
中島:皆さんの目が肥えていて、驚きや感想の声だけではなく、「なぜこの素材にしたのか」、「どういうことを目指しているのか」などたくさん質問してくださったことが嬉しかったですね。こちらがタジタジになることもありました(笑)。
山田:素晴らしいですね。
今後の展開
山田:最後に、今後の展開について教えてください。
伊藤:余薫とそのコンセプトをもっとたくさんの方に知ってもらうために、製品化を検討しています。
山田:おお、すごいですね。商品として買えるようになったら嬉しいですね。
伊藤:ええ、ただ市場にすぐリリースしてもあっという間にコピーされてしまうので、私たちにしかできない価値をもっと加えなければならないと考えています。
たとえば、大学発のプロダクトなので、きちんと科学的な裏付けができないかとか。ミラノサローネへの出展をきっかけに、嗅覚が専門の先生から共同研究のお誘いもあったので、そういった出会いをいかしながら進めたいですね。プロジェクトの展開については、FacebookページとInstagramのアカウントで更新していくので、ご興味のある方はフォローしてみてください。
その一方で、私自身は香りのもつ曖昧さや、幅の広さが面白いとも思っています。そうしたファジィな部分についても、学術的に考えていきたいです。
中島:そうですね。嗅覚や香りというものは、科学的にも文化的にもまだまだ広がりが期待できます。近年の医療研究では認知症と嗅覚低下の関連が示唆されたりもしていますし、最近ではマーケティング活動に香りが活用されるようになっていたり、ビジネスの側面でも嗅覚や香りのマーケットはかなり成長が期待できると言われています。いろいろな観点で注目の領域だと思います。
山田:私自身は、香りは楽しむもの、美学的なものだというイメージがどうしても強くありました。しかしお二人とお話させていただいて、嗅覚のトレーニングやコミュニケーションの問題をはじめ、香りが社会課題の解決につながるかもしれない可能性を感じることができて大変新鮮で、刺激的でした。
今日はこのあたりで対話を終えたいと思います。長い時間ありがとうございました。
伊藤:ありがとうございました。
中島:ありがとうございました。