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日本における現代フェミニズムの支配的価値観 前編


        

 日本におけるフェミニズムは人によってどのように見えるのかが実に多様ではないだろうか?

 フェミニズムの中からも、その他の人々からも、フェミニズムがどのように見えいているのかというのは実に多様な形があるようだ。ある人からは今のフェミニズムは真実や本物のものがあり今いるのは偽物だとか、一人一派ととらえるものや、女性のためだけにやっているだとか。あるいはフェミニズムとはいうが、思想体系なんてないのかもしれない。
 一つの思想の中にも色々な派閥のようなものがあるというのは理解できるとは言え、フェミニズムはその思想や位置体系まであまりに形や見え方がバラバラであり、他人の理解を妨げている部分が大きい。

 凡人の我々にとっては、考えれば考えるだけわけがわからないような状況ではあるが、そんな状況の中だからこそ見えてくる思想の方向性があるのではないだろうか?その部分こそが現代における日本におけるフェミニズムの支配的価値観があるのではないか?
 その部分を探っていったのが、今回のnoteの内容である。他人がバラバラに考えている状況から、何か統一的なものや方向性を探るというのはかなり困難には感じるものだが、一つ一つの事象や争いを見てくとぼんやりとではあるが、何か形があるようなものが見えてくる。


1 現在語られているフェミニズムの中心思想


 現代のフェミズムで支配的価値観を有している勢力に関して多く語られているのは、ラディカルフェミニズムと言う考えがフェミニズムの支配的価値観であり、リベラルフェミニズムがそれに対抗するという言説である。

 主だって、表現規制が中心的な論点となるのだが、特に萌え絵などのオタクカルチャー的な部分に規制をかけようとする場面や、グリッドガールやミスコンのような女性の美的な部分を競い、表象する様な場面、ポルノのような男性が性的に喜ぶだろう表現といったところで激しい対立が見受けられる。

 事例はいくつもあるが、特に大きな事例としては去年には戸定梨果の炎上であろう。このときにはフェミニスト議員連盟という大きな勢力が絡んだ騒動にまで発展し、それに対抗する勢力が争いあっていた。

 その中には、フェミニズムを名乗っている人物もフェミ議連に対抗する構えを見せていることもあり、女性の(性的)表現の自由や在り方を保護するために争っているのである。

 かつて、ラディカルフェミニズムもポルノやミスコンと言ったものを規制しようとする動きがあり、萌えがらみもそれの延長線上のことである。と考えれば、確かにラディカルだ。その結果、女性の立場を制限しようというのだから。フェミニズムが目指していた女性の解放という理念からは真逆の結果になっている。そういったところに対抗するために、リベラルフェミニズムが対立軸として出てきている。

 そして、日本のリベラル勢力及び海外のポリコレ規制の動きを見るに、ラディカルな方面に同調するような動きが見いだせるため、日本ではラディカルフェミニズムが主流なのではないだろうか?ともとれるのである。

しかし、この説には疑問が残る。


① 従来の違いに関して

 本来、ラディカルフェミニズムとリベラルフェミニズムの大きな違いというのは、公的な部分における差別是正か、私的な部分に関する部分にまで差別是正を行うかという点である。
 リベラルフェミニズムは、本来的には法律などの公的な部分において、差別を改善するために制度の撤廃や改善を主立って行ってきたのである。そこから更に私的な領域にまでは踏み込んでくることはないというのが一般的な違いである。

「個人的なことは政治的なこと」そのように話したのは、ラディカルフェミニストの一人であるケイト・ミレットである。リベラルフェミニズムが法的な権利を整えることによって、男女平等を実現するだけでは不十分であり、性的な支配というのは法的な部分だけではなく、私的な空間にまで及ぶものではないか?というものである。

 従来の違いを考えると、そもそも対立軸の概念として先ほど紹介した対立には疑問とは何ら関係ないのではないか?とも考えられる。また、現代のフェミニズムにおいても、このような公私二元的な対立というのは考えにくい。


 現代において、DVや親権といった家庭内の部分や、恋愛関係の一つ一つの所作や在り方などプライベートな部分にまで性別で役割を固定すべきでないことや、意識の変化をさせるようなことも珍しくもない。特にDVといったものは法が制定されるほど介入もされている分野でもあり、私的な部分であってもフェミニムズが介入してないとはもはや言えないものだ。リベラルフェミニズムとてこういった部分に積極的に反対して対立しているような状況は見られない。

 更には、現実的にこのような二元論的な考え方をとること自体に疑問が残る。そもそも現代において公的な部分と私的な部分というのは混じり合っており、曖昧な部分というのはどうしても残る。
 別件でも紹介した話ではあるが、私企業が多くの人が出入りする空間を所有しているようなことはどこかしこにでもある世界だし、逆に公的空間であっても、その影響度合いや取引内容、関連性などから、私人が行った行為と変わらないようなケースもあるだろう。

 個別にて性質が異なるものを相手にするとなったとき、公的・私的と言った区分けが現実的にそのまま分かれるというのは、とても考えにくいのである。公私二元的な考え自体が対立軸としてあがることは、古いのではないかと言える。


② そもそもみな急進的なのか?

 また、ラディカルフェミニズムだけでとらえてしまうと、第三波フェミニズムが掲げている個性の尊重というラディカルフェミニズムが生んだ、フェミニズム的女性の型から外れた女性を糾弾・阻害するというところから避けるという、ラディカルな思想から離れるような要素や傾向を説明できない。

 フェミニズムを避けるといっても実に様々な形があるが、フェミニズム的な傾向を支持するとしても、わざわざ名乗ることや原理的なフェミニズムなどとの同一視を避ける傾向があるパターン(例として、ポストフェミニズム、ネオリブといったもの)というケース、今更フェミニズム自体がそこまで必要かと懐疑的なケース、マスキュリズムのようなフェミニズムと親和性がある部分をもちながらも大きな対立を生むケース、反フェミニズム的な言動を持っているケースなど。様々なケースがあるとはいえ、必ずしもフェミニズム的な思想を否定しているわけではない。



 更に、男性でなおかつ若い世代からはフェミニズムに対するイメ-ジの悪化という側面が強くなってきている。人権教育を若いうちから受けている世代であるにもかかわらずである。SDGsなどという胡散臭い言葉がある中で、これほど嫌われるような結果というのは、現代フェミニズムが平等とはほど遠い勢力だと感じているからなのもあるだろう。特に過激な言葉を浴びせかける勢力に対してはなおさらだ。


 いくらフェミニズムが浸透しているとしても、必ずしもラディカルな勢力が多くの人に受け入れられているというわけではない。


③ 男性差別反対勢力との対立

 男性差別勢力との争いという観点でも大きな問題も、特に日本においてはフェミニズムとの対立が顕著であり、海外の事例から見てもかなり異様な光景を見ることが出来ることも、この説を疑問視する根拠になる。
 
 もはや、代表的すぎる事例である女性専用車両は、海外ですらもフェミニズムが反対している事例が複数存在するにもかかわらず、日本では海外のような意見はまず見ない。差別において、特定属性を一律に隔離することは許されない(分離すれど平等ではない)とする基本的な理解すら、根本的に無視することも珍しい話ではない。
 共同親権に関しても、フェミニズムだけではなく日弁連といった勢力ですら抵抗勢力となり、男性のDVを主な根拠として(※親から子供に対する虐待については、加害者の割合に触れないで)強硬な抵抗を見せてくる。既に欧州や北米ではとっくに共同親権をリベラル側も受け入れているにもかかわらずだ。

 他にも先日書いたホームレスの件などいくつかの事例を挙げることが出来るのだが、明らかにリベラル的な考えに反している事例ですらも、リベラル・ラディカルどちらからも指摘される声をほぼ見かけない。触れないだけではなく、反差別的な論理ですらも何らかの形でねじ曲げる姿勢は散々見てきたわけでもあり、それを是正する動きは主要なリベラル層ではほぼ皆無である。それだけなら良いが、男性差別反対論を右翼や排外主義者であるというように、明白で悪意のある嘘をつく者すら現れる始末である。


 複数の男性差別の具体的事例を見ていても、あまりに異質な論理構造になっている日本の男女論に関し、リベラルやラディカルという論理だけでは答えを導き出すことが出来ない。海外だってフェミニズムにもいくつかの派閥があるだろうが、日本のような異質な事例はなかなか見ない。
 女性専用車両一つとっても、ポリコレによって性的表現の規制が厳しい状況であり、ラディカルフェミニズムの影響がありそうな状況であっても、ほぼ女性専用車両が導入されていないだけではなく、フェミニストからも大きな反発をもらうという状況である。(12中国のように専用車両が導入されている国ですらも、フェミニストからの圧倒的な反対があり、韓国も同様にフェミニストからの支持が得られているわけではない。


 しかし、日本では男性の対立を前提としないはずのリベラルフェミニズムですら、この有様というような状況である。男性差別論は、基本的にどちらかだからといって説明できる範囲を超えているのだ。


2 根底の価値観に存在しているのは?


 ラディカル、リベラルの双方の主張対立だけではとらえきれない視点があることをここまで指摘させてもらったのではあるが、双方の考えだけでは足らない根底的な部分とはいかなるものなのだろうか?もちろんバラバラな価値観を有している人間であるからこそ、端的に全員がこうであるということはできない。だが、明らかに思想がばらばらでも一定の方向性を見出すことができる部分もある。特にフェミニズムやリベラルを標ぼうしている活動家や学者、それに追随するマスコミなどにはその傾向が顕著にみられる。

 その奇妙な部分をおぎなっている部分があるはずなのだが、根底には何があるのだろうか?そう考えるのは不自然ではない。そしてこれから指摘する部分は、ラディカルフェミニズムですらも影響をうけている部分があり、根幹を支えているのではないかと。

 その根幹を支えている思想こそ、マルクス主義フェミニズムである。と私は考える。このフェミニズムは名前の通り、社会主義や共産主義の主張とフェミニズムを合わせたものである。資本制度における男性からの女性を搾取する行為を批判(特に専業主婦であることを理由に無償労働をさせられていると批判)し、女性も労働者であるとして、労働者(女性)を支配する男性(支配階級)を批判するという構造がその根幹である。アンペイドワーク(無償労働)という言葉も、マルクス主義フェミニズムから生まれた言葉である。

 と、簡単な説明をさせてもらったのだが、今現代においてこの言葉を耳にすること自体何がずれている感じに思うだろう。それもそうだ、マルクス主義そのものは既に崩壊している状況なのに、なぜ根幹部分がマルクス主義だと言えるのか?と考えられるからだ。

 資本主義と共産主義の対立なんてもう何十年も前の話である。ソ連の崩壊した後には、共産主義なんて言うのはすたれたものなのだし、そんなカビが生えたような対立なんてない。ならば、フェミニズムに入り込んだマルクス主義だってなくなっていて当然ではないか?なぜ、いまさらそんなものが出てくるのか?と思うだろう。
 だが、私が目を向けて欲しいのは資本主義と共産主義という明白なイデオロギーな部分の対立を要点としたいわけではない。ここで取り上げる重要な部分になってくるのは、「階級闘争」である。


① 理論的な親和性

 階級闘争を平たくいえば、社会を支配している支配階級・資本家と被支配者階級・労働者との争いであり、階級が下のものが上のものを打倒することによって、発展していくというものである。

 そして、その発展が起こるというのは階級が上のものを倒していくことによって達成されるものであり、支配構造は多少の変化を伴ったとしても、構造そのものが根本的に変わらなければ、支配している状況は変わらない。その支配が終わるためには、既存の構造が全て破壊されたときが来るときに、始めて革命が達成されたとされる。それまでは革命行動は続いていくのである。

 もちろん、現実の世界でこんな単純な構造が成立するというのはあり得ないものです。現実には色々な立場やケースがあるのだから、その時々によって状況が変化し、結論が異なるのは当たり前だからだ。

 ただ、現代フェミニズムやリベラルの主張をみていると、男女というものを「階級」として疑似的に当てはめているとすると、とても親和性の高い論理を見ることが出来る。

(1)用いる理屈

 典型的なものと言えば、「権力勾配」、「非対称性」、「男社会」、「マジョリティーとマイノリティー」などというワードであろう。
 これらのワードは、別の差別論でも用いられるのだが、男女論の場合では主だって男性という支配者側が存在しているという前提や男性と女性とで性質が異なるという前提で話される。
 男性側が女性側を支配しているのであるから、男性側は基本的に利益を得ているものであり、女性側は不利益を被っている。まさに男女との間には「階級」が存在しているという考えである。もちろん、男性は自分たちの利益を最大限に獲得することを考えており、労働者(女性)側に利益を享受することは考えて折らず、多少女性が有利になっていても、男性からの支配構造は変わらない。だからこそ、資本(男性)側は利益提供をするわけのない敵であり、徹底的な対立関係が前提となっている。

 男女関係以外の話も混ぜるが、同じような論理構造を持っているものをいくつか挙げよう。





 と、まあ適当に挙げただけでもこんな感じである。挙げすぎるとキリがないのだが、とりあえずこういった感じである種の階級分断のような言論がリベラル界隈で見られるのは事実である。(もうちょっとだけ参照部分に同じような事例をあげておく。)単にラディカルフェミニズムだけではなく、そうでない部分にまで同じような理屈を見かけるわけではあるのだが、単なる性嫌悪だけではなく、明らかに一定の理屈めいたものがここでも発揮されているのである。

 男性差別に極端にまで冷淡かつ非協力的で、そもそも存在自体を否定するような動きを見せるのは、そもそも敵対する勢力についての利敵行為であるからだ。階級構造自体が変化していない段階で、男性差別があること自体が矛盾していると捉えてしまうのである。

 そして、金太郎飴のように男性差別に対するリベラルの態度が、まるで統一的な意見が見えるような正体のひとつなのである。(マスキュリズムに右翼や排外主義というレッテルを貼るのも同様に、階級や勢力として「別」であるとの強調しているのである。)

 また、ラディカルフェミニズムにおいても、マルクス主義フェミニズムと対立しながらも、階級闘争を前提とした考えを取り入れているのである。

ラディカル・フェミニズムもマルクス主義フェミニズムも、男女間の関係を支配・従属の階層関係とみなしている点では共通しているが、では両者の分岐点はどこにあるのだろうか。男女間の権力関係を、主としてセクシュアリティ――性関係、性行為、性的能力、生殖、等――をめぐるものとみなすのがラディカル・フェミニズム、主として女性労働――家事労働、賃労働、性分業――をめぐるものとみなすのがマルクス主義フェミニズムである。つまり、ラディカル・フェミニストにとって、女性のセクシュアリティをめぐる男女の権力関係が「階層としてのジェンダー」を構成するのに対し、マルクス主義フェミニストにとっては、女性労働をめぐる男女の権力関係が「階層としてのジェンダー」を構成する。

 

より

 階級分析論を応用した形で、ラディカルフェミニズムはせいにおける男女の階層を提唱したのだが、結局はこの考えもマルクス主義の階級闘争を前提としているのに変わりはない。

 過去にも、男女二元的な前提から、男性には不利益があっても忌避するようなケースをいくつかあげさせてもらった。階級闘争を前提とすれば、彼らの反応は非常に納得がしやすいのである。。


(2)近年における分断を生むワードと差別性

 また、近年では「白人特権」と言ったようなワードのように、男性は男性であるが故に無自覚に恩恵を受け居ていることや加害性を持っているといった主張(男性特権)も見受けられる。
 男性は産まれながらにして下駄を履かされ、加害する要素があるのだからこそ、それを抑えなくてはならない。そのためには男性がもっと意識的になって、加害性や特権性をなくすために女性にその在り方を示すべきであると。

 もちろん、こんなものは属性が属性であるがゆえにその全体を固定的、不利益に扱ってもいいという差別で否定してきたことを再生産するものであり、差別解消という概念から根本的に反することは言うまでもない。それにもかかわらず、これが認められるのは端的に階級支配がすべて破壊されていないからこそ、相手の利益を認めるべきでないという考えに当てはまりすぎているのである。

 このように、実に様々な形で男女二元的な論理やワードが存在しているのは、階級闘争という概念を理解すれば実にわかりやすい。


② いわゆる「ルサンチマン」との融合

 敵という概念及び自分たちの勢力が被害者であるという意識を作ることは、嫉妬心に駆られたものを誘惑するのにはうってつけであると言えよう。

 女性は差別されている。男性が加害者で抑圧的であり、それがあるからこそ女性はうまく自立することも、権利を行使することも出来ないのだ。だから男社会を破壊しよう、男性から女性の権利を取り戻そう。
 と言ったように、あくまで女性がうまくいかない原因を別の何かに求めることによって、女性のルサンチマンを刺激し、味方に引き入れようというわけである。人々が貧困にあえいでいて、一部の資本家が利益をむさぼっていることに対して、ルサンチマンを煽って資本家を打倒しようとする動きとよく似ている。
 もちろん、本当に女性であるが故に差別されているか、うまくいっていないのかという事は問わない。不遇な人間を取り込むための手段として、自責の念を緩和して他人のせいにするような誘導を行うことは、カルト宗教などでも使われる手口である。肝心なのは他人の嫉妬心をうまく利用できるかどうかである。

 また、特定の敵を作るというのも、人の団結という面では有効な手段である。女性という属性をうまく団結させるためには、男性という敵を作り、それを構造化することは味方を作りやすい状況も出来る。

 こういった部分もあるからこそ、過激派やミサンドリーを含むラディカルフェミニズムともなじむ部分があっただろうし、またマルクス主義的な部分は隠れてしまう要因にもなっていたのだろう。

 アカデミシャンや社会活動家に身内の過激派を批判する動きが少ないのも、単にイチイチ相手にしていられないことや、身内だから批判しにくいだけというだけではなく、利用価値があることも考えられることだ。

③ 共産主義、社会主義的な革新勢力との融合

(1)共産主義の衰退と次の行き先

 マルクス主義的なフェミニズムが支配的になる土台も存在していることも、思想的な親和性に一役買っている。かつての共産主義・社会主義的な勢力が、フェミニズム勢力に流入してきた(もしくは最初から存在していた)経緯があるからだ。
 先にも書いた通り、冷戦というものは既に共産主義勢力の衰退とともに崩壊しているものであり、その名残の部分が現代であったとしても既にその争いは過去のものとなっている。90年代に冷戦構造がなくなったことによって、行き場を失った共産主義勢力や社会主義勢力が次に行くために道を探るのではあるが、その受け入れ先が人権思想やフェミニズムと言ったところに流れてきたのである。

 元々、これらの思想は人々の平等や権利を保障するものであり、貧富の格差を是正・人民を平等にするという共産主義や社会主義勢力の考えと相性が良い。アファーマティブアクションや、男女の収入格差をなくすようにしようとする考えは、事例としてもとても理解しやすいもので、人々に格差のない結果平等の世界と目指そうとしているのは、双方とも同じである。
 また、冷戦崩壊前にだって、それらの勢力はフェミニズム系の活動も行っていたこともあることもあり、入り込みやすさは元々強かっただろう。

(2)受け入れやすい人材の存在

 この動きをサポートする役割を担った人物もフェミニズムの中に多く存在しており、その代表例は上野千鶴子氏が挙げられる。現在のフェミニズムの形成に大きな影響力を持った人物であり、学者としてもトップを走り続けたと人物ではあるが、それだけでもマルクス主義フェミニズムが日本に根が張っていると考えられるだろう。彼女自身も学生時代に学生運動に参加している経緯もある。
 つい先日からも色々と話題になっていたのだが、その話題になった話だけを見ても、先に紹介した論理やルサンチマンを惜しげもなく披露している。


それならば、女性が男性に「イケメン」などと言うことも問題視されるべきではないのだろうか。

「よくある反論ですが(苦笑)、女の場合は一元尺度でランクオーダーされるのに対して、男は多元尺度なんです。たとえばイケメンじゃなくたって、学歴とか地位とか、そういった尺度が男にはある。男の尺度の中で一番強力なのは金力(稼得力)であり、イケメンかどうかなんてことは、男にとってはマイナー尺度です。つまり男女のランクオーダーは非対称ですから、『女だって同じことをやっているだろ』とはなりません」


より

運動には男も女もなかったはずなのに、結果としてどれだけジェンダーギャップがあって、女がどれだけのツケを払うかってことも、骨身に染みて味わった。私がフェミニストになった理由はね、私怨よ。

より

 こういった人物がフェミニズムの主要人物として大手を振って歩いていたからこそ、ここ何年かの過激な勢力が増長する結果になったというのもうなずけることであり、リベラル勢力内では割とすんなり受け入れられた土壌が存在したのだろう。



 現在でも、マルクス主義フェミニズムが有効性を持っているのは、端的に旧時代の思想を持っている人の存在や、新しい人材の取り入れるための有用性などがある。彼ら彼女らを受け入れられやすい器として存在するために、現代でも生き延びているわけである。


 とりあえず、前編としてここでいったん区切る。後編はこの条件を踏まえた上で、今のフェミニズム及びこれからのフェミニズムが向かうところを書いていきたいと思います。


参照


参考 その2 



マンガ「ヘイトスピーチって知ってる?」
https://norikoenet.jp/hatespeech/do_you_know_hatespeech/

女性の階層的地位を巡る論点

マルクス主義フェミニズムの可能性--階級とジェンダーとの関わりから


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