【短編小説】 スマートな男
「本日はありがとうございました! 今後ともよろしくお願いいたします!」
私は深々とお辞儀をして南青山のオフィスを後にした。
外に出るとキンと冷たい風が顔にへばりつく。二月末でも夜はまだ冷え込みが激しく、厚手のコートと首に巻いたカシミヤのマフラーをもってしても寒気を防ぐことはできなかった。
「おぉ、さっむい……」
私は背中を丸めて腕をさすりながら駅へと急いだ。
階段を降りて改札を潜ると、ちょうどよいタイミングで渋谷行きの電車がホームに停まった。扉が開くと同時に大勢の人が溢れ出してきたが、出てきた数よりもさらに大勢で中へと流れ込む。私もその流れに身を投じて四角い箱の中へと押し入った。
この時期でなければ渋谷駅まで歩くことを選ぶのだが、寒がりの私にとっては揉みくちゃになろうが温かい方がいくらかマシだった。
一駅で渋谷に到着し、私は再び外へと放り出された。渋谷の夜は物理的な色こそキラキラと輝いているものの、私には一つも輝いているように見えなかった。
銀座線から東横線に乗り換えて自宅の最寄り駅まで帰ってくると、駅前はかなり賑わっていた。
会社を辞めてフリーランスになってからは曜日感覚を失くしてしまい忘れていたが、今日は金曜日だった。
会社員時代に「華金」と騒いでいたのが懐かしい。
もっとも、入社して三年間は馬車馬のように働いていたので、私の意味する華金は世間と少し違ってはいたが。
「明日も仕事だけど、私も華金するか〜」
そう呟いて、私の自宅とは反対方向に駅前の通りを歩いてみることにした。
どの店もそれなりに賑わっている様子で、女の私が一人で入るには少し気が引けた。
居酒屋を数軒通り過ぎると中に一本折れた細道の先に、ぶら下がる赤提灯と"おでん"の文字が目に留まった。
体感的な温度ではないが、その店はほんのり温まるような色を放っていた。
引き戸を開けて中に入ると、大通りの店には劣るがやはり華金なだけあって半分以上の席が埋まっていた。
「いらっしゃい。何名様?」
「一人です」
厨房の中で店主らしき人が忙しく手を動かしながら優しく私に問いかけた。
「カウンターでもいいかい?」
「えぇ、もちろん」
私はそれに笑顔で答えた。
私は席に着いてすぐに生ビールとつまみの枝豆、そしておでんの盛り上わせを注文した。
身体にアルコールを入れるのは久しぶりだったのでまだシラフであるにも拘らず、すでに気分は高揚していた。
また、高揚している理由はそれだけではなかった。
今日の商談でわりと大きな仕事が決定したため、普段よりもかなり心が躍っていたのだ。
ほどなくしてビールが席に運ばれてくると、私はそれを豪快にも一気に喉に流し込んだ。店内の暖房で温まった身体にビールの冷たさが身に染みる。
心と身体が震えるように喜びの悲鳴を上げているのを感じた。
「めちゃくちゃ美味そうに飲むね」
隣に座っていた男から声をかけられ、有頂天ぎみになっていた私はハッとなって我に返った。
「久々のアルコールに嬉しくなっちゃって」
「そうなの? 飲みっぷりからして根っからの酒飲みなのかと思ったよ」
男は口角を上げてニッと笑った。
ゆるやかに波打ったミディアムパーマと整えられたあご髭、くっきりとした二重に通った鼻筋は、まさにイケオジと称されるに相応しい印象だった。
「一人? よかったら一緒に飲まない?」
ナンパされたのはいつぶりだろうか。
驚くほどのスマートさになぜか全く嫌な感じはしなかった。
「いいですよ、私なんかでよければ」
「『私なんか』はやめな? 僕も誰にでも声かけるわけじゃないさ」
「そうなの? スマートぶりからして根っからの女好きなのかと思った」
私は男の口調を真似て答え、ニッと口角を上げた。
「やられた……さてはナンパ慣れしてるな?」
「まさか。数年ぶりですよ」
「え! そんなことあっていいの?」
そんなことがあってもなくても事実なのだから仕方ない。
まずもって、「いい」とは何に対してなのだろうか。
「イケオジだからって、なんでも許してくれる世の中じゃないですよ?」
私はジョッキをぐい、と煽って二杯目のビールを注文した。
「あ、僕も生一つ。それにしてもオジはないだろ。これでもまだ三十二だよ?」
「え! てっきり四十くらいかと」
「そんなに老けてみえるのか……世知辛い」
決して老けて見えたわけではないが、大人の色気があったので相応の年齢なんだろうと勝手に思い込んでいた。
「いや、大人っぽくて! そんな老けてるとかじゃなく、色気があってもう一個上のレベルから女性を相手にできるって言うか、魅力としての年齢が高いって言うか……」
「待って待って、必死すぎ! 十分伝わったよ」
男が額を抑えながらクックックと肩を震わせて笑っているところに、追加のビールと私の頼んだおでんが運ばれてきた。
「そんじゃ改めてカンパイ」
私たちはコツンとジョッキを合わせて乾杯した。
その後はお互いの仕事や趣味などについて広く、そしてときには深く話し合った。
「ナンパされてこんなに盛り上がったのは初めて。なんで相手いないんです?」
「言い訳にしたくないけどね、今までは仕事だけを頑張ってきたから」
「嘘だ、経験値を積んだいかにもなナンパテクニックだったけど」
「コミュニケーション力がついたのは部下のおかげさ。信頼を高めつつ、適度な距離感でいかに円滑に仕事を任すか。それを任せられるようにどう教育するか、最初は苦労したさ」
選ぶ言葉や話し方から、彼が賢く仕事のできる人間であることが窺えた。
「思ってたよりもちゃんとした人でした」
私は素直な賛辞の意味を込めて言った。
「ありがたく受け取るよ。僕から声をかけておいてなんだけど、よく一緒に飲む気になったね? 元々ノリがいい性格なの?」
「元々はそうだけど、会社員の頃はまるで別人でしたよ。生きてる意味がわからないほどに」
「へぇ、それはなんで?」
「忙しく働くうちに、なにを大事にしたいのかを忘れてしまったの。あるきっかけで価値観が変わって、そこからはまた色んなことを楽しめるようになりました」
私は二年前を思い返しながら、おちょこに残った日本酒をくい、と飲んだ。
気がつけば二人で日本酒を三合も頼んでいた。
「価値観が変わって、か。価値観ってなんだと思う?」
「うーん。大切にしたいこと、とかかな?」
「そうだね、まさにそうだ」
男も残っていた日本酒を飲み干した。
「もう少しだけ付け加えると、価値観って大切にしたいことの優先順位だと思うんだ」
「優先順位?」
「そう。『価値観の違いで……』って別れるカップルとかいるだろ? あれって、お互いが大切にしたいことの優先順位が違ってるんじゃないかな? って」
私は "価値観の定義" について考えたこともなかったが、男の言葉はすんなりと納得できた。
「じゃあ、価値観が合う人ってわりと奇跡的ですね」
「ほんとにそうだよね。でも、上手くいかない原因は価値観の違いなんかじゃないよ」
「何が原因なの?」
「価値観は違って当たり前なんだ。問題は価値観が違うことを "受け入れられるか" どうか、だと僕は思うなぁ」
私は感心してしまった。
「受け入れられる」という表現はまさに的確であると思った。
寛大な心を持った人のことを "器が広い" というが、器が広いからこそ多くのことを受け入れられるのだ。
そして目の前に座る男はまさしく、広い器の持ち主であった。
「だからお礼を言わないと。ありがとう、君が受け入れてくれたおかげで楽しい時間だった」
「こちらこそ。とても楽しく有意義な時間だった。ありがとうございます」
男は「帰ろうか」と言って席を立った。
私も合わせて席を立つと、そのまま扉を開けて外に出ていく素振りをみせた。
まさか、勘定はこっち持ちだというのか?
いい話を聞かせた受講料とでも言うつもりだろうか。
新手の詐欺を疑って慌てる私に店主が言った。
「もう貰ってるよ」
店主はにこやかな表情で男の背中に目をやった。私がトイレに行っている隙に済ましていたらしい。
全くどこまでもスマートな男だ。
店を出ると思いの外酔いが回っていたのか、足元が少しふらついていた。そのままよろけて転びそうになったとき、手のひらをヒョイと掴まれて上体を起こされた。
「大丈夫か? 飲み物買ってくるよ」
「いや、いいよ! いい、大丈夫」
立て続けに男のスマートぶりを見せつけられたのと、それに少しときめいている自分がいるのを実感して、突如として恥ずかしさが込み上げてきた。
「そう? 顔真っ赤だよ。無理してない?」
赤面を隠そうと俯く私の顔を下から覗き込む。まるで漫画の世界みたいだ。
「……飲み物買ってくる」
その場の雰囲気に耐えられそうになかった私は自販機の方へと駆け出した。
私らしくない。
きっと、久しぶりのアルコールと今日に決まった大型案件のせいで舞い上がっているのだ。
私は落ち着け、と言い聞かせるように自販機のボタンを押した。
「はい、コレ」
私は男にも飲み物を一本差し出した。
「え、ミルクティー? 酔ったときって普通はお水とかじゃないの?」
「私の価値観。どうでもいいを忘れないためのおまじない」
男は一瞬キョトンとした表情を浮かべた。
そしてその後にっこり微笑んでミルクティーを受け取ると私に向かって言った。
「僕と付き合ってください」
突拍子もない出来事に今度は私がキョトンとしてしまった。
今のは告白? 少し飲んで会話が弾んだとはいえ、今日出会ったばかりでお互いのほとんどを知らない二人がいきなり付き合うことなどあっていいのだろうか。
「えっと、そんなことあっていいの?」
「何に対しての『いい』なの? 世間体?」
「んー、私の人生的に?」
少しの時間、私はゆっくりと考えた。
そして男をみて言った。
「……私なんかでよければ。あ、訂正する。私がいいなら、ね?」
「そういうとこ。君がいいんだ」
私たちはお互い照れたように笑い合った。
「一足早く春がきてしまったような感覚だ」
「まだこんなに寒いのにね」
「そう考えると、ミルクティーも悪くないな」
男はそういうと、ペットボトルの蓋をあけて暖かいミルクティーを一口飲んだ。
「今さらだけど、名前聞いてもいい?」
私はハッとなって驚いた。
そういえば、お互いにまだ名前も知らなかった。出会ってから付き合うまではスムーズではあってもスマートではなかった。
仕事ばかりで恋愛を疎かにしてきた男女にスマートな恋など酷な話だったのだ。
「優香。古館優香です」
「優香ちゃん、ありがとう。細井大樹です。順番はちゃめちゃだけど、これからよろしくお願いします」
スマートな男とスマートじゃない恋が始まった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?