授業の最初の「礼」は何のため?【時には本質を考えなおす時間も必要】#537
おはようございます。
4/16 昨日約2年ぶりに学校の授業を見学してきました。懐かしい感じもありつつ、来週からの授業をどう作っていくかを0から考えられる今の状況に心がワクワクしている おこめさんです。
授業を考えるってワクワクしますね。
こういうとき、やっぱぼくは先生っていう仕事好きなんだなぁって感じます。
だけど忘れちゃいけないのは、今回現場に戻る目的です。
(先生をしたい!っていう気持ちだったらさっさと採用試験でもなんでも受けて先生に戻ればいい)
そもそも理科の授業が教えたいから先生に戻る というよりは、ある校長先生からその総合学習の形や学校運営についての様々な知見を学ぶという目的が一番なのです。
そこは忘れずに1年間学び続けたいです。
(こういうことを書かないとすぐに授業作りに500%の時間を使ってしまう)
ということで今日は 授業の最初と最後の 礼 について考えてみます。
▼授業の礼
来週からはじまる授業に向けて、昨日改めて学校の授業見学に行かせてもらいました。
校長先生と一緒にいろいろな授業を見させてもらう中、学校のあたりまえを問い直している校長先生の姿勢がいろんなところで見えてきました。
例えば、タイトルにある 授業前後の「礼」について
この学校では 礼 についての強制はいっさいないそうです。
やってもいいし、やらなくてもいい と
これは指導要領などでかならずしも やらないといけないこと として決まっているわけではないというところからです。
そういうフラットな感覚にたったとき、なぜ「礼」は必要なのかを考えてみると
・時間の感覚を切り替えるため
・気持ちを整えるため
・今から教わる先生にお願いを伝えるため
いろんな考え方が浮かんできます
でも、そもそも授業の本質とは何なのでしょう
先生という大人が生徒という子どもに何かを教える時間 でしょうか
子どもが何かを学びとる時間 ではないでしょうか。
先生が教えることが仕事なのだとしたら、それは何のためでしょうか。
なぜ教えないといけないのでしょうか。
正解があるものは先生が教えなくてもどこかに書いてあります。
正解がない、生き方や人生観であれば、それは教えるではなく伝える だと思います(そして、それは相手が聞いてくれてこそ成り立つこと)
さらに本来の授業の本質とは 子どもがその時間の中で学ぶ ことではないでしょうか
そこに先生が教える ことは必須ではないはずです。
なので、教えてくれる先生に お願いする という形はもはやあっていない感覚なのかなとも感じます。
あくまで先生と生徒は大きな世界、歴史間の中の小さな一人の人間で、そこに上も下もなく、共に学ぶ存在という感覚こそ大事な気がします。(吉田松陰先生でさえ、教えるではなく共に学ぶ姿勢を持ち続けた)
また時間の切り替えの意識は 別に礼があってもなくても可能なはずです。
「では今からはじめようか」
でいい気もします(大人の会議などは基本的にこれですよね。学校の職員会議でさえ、礼はしていません)
そんなことを考えていくと、なぜ礼をしないといけないのか という必然性がぼやけてきます
(日本人としての誇り、礼儀作法を学ぶため ならばそのための時間をきちんととるべきだと思います。子ども(や先生)が何のためかもわからずにただ自動的に行われることに意味はないのかと)
▼あまり前を問い直せる環境
でも、こういう校長のもとで授業に向き合うからこそ、はじめて自分の中で当たり前だと思っていたところに目がいくような気がしました。
学校から一度外に出たとしても、やっぱり自分の経験はついてきていて
どうしても自分がそれまでやってきた当たり前にぶつかる気がしました。(どうして授業の最後に礼がなかったんですか?ここの学校のルールはどうなってますかって聞いてる自分がいました。)
でも、その時々にこうして 「なんでそれが必要なの?」という問いを学校から投げかけてもらえることで自分の中の なんで? を深く問い直すことができます。
もちろん、自分としても いろんな方面から学校を見つめ、なんで?という本質を考えていきたいし、それを学校全体でもシェアしていきたいと思います。
1年間でどこまでのことができるかはわかりませんが、 そもそも に立ち返って 常にフラットな意識で 学校に関わっていきたいと思います。
今日もここまで読んでくださってありがとうございました。
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