見出し画像

遺書となるはずだった文

前書き


遺書本文は2023年2月6, 7日の2日間で執筆した文章となります。
本記事を投稿しようとしている現在、2月8日の時点で希死念慮については少し落ち着いたことを自覚しています。
現在の自身の感情や思いについては未だ上手くまとまらないような、むしろ昨日一昨日はスラスラと書けたのですがね。

さて本文は題の通り、私本人が自死決行に向けてしたためた、遺書になるはずだった書となっております。
当初は実母に向けて書き始めましたが、途中から友人にも読んでもらおうかなどとも思い始め、最終的には私の常日頃の思想として発信「しなければならないのではないか」というような謎の使命感を受けつつ書き納めました。
現在note投稿に際して一部分の削除、一文の行間調整をしましたが、この二箇所以外に修正・加筆した点などはございません。
(※追記

のはずだったのですが行間調整・誤字修正などをしまして可読性を高めたつもりです、全然依然読みにくい気もしますが。)

なぜ発信「しなければならない」などと感じたのか、前提としてこのような発信が多大な影響力を持ちかねないことは認識しているつもりです。
(ウェルテル効果など含めて。)
自死を推奨する目的で発信を行いたい訳ではありませんが、影響を受けた方の行動を促しかねないというところもあるでしょう。

そもそもこのような発信をするという選択を私がしていることに変わりはなく、誰かに頼まれて投稿をしている訳ではありません。
先天的な要因か、後天的な要因か、どのように世界から影響を受けたか、何はともあれ私は今このような投稿をするに至る地点におります。
このような発信をすることで人々の理解・承認を得たいのか、世界への影響力を有していることを自分に証明することでこの無力感を消し去りたいのか。貢献感を得られることで救われるのか。
自己分析はとどまることを知らないのでこの辺で。

自死の奨励をするつもりはない、と言いましたが闇雲に誰かの自死を止めるつもりもありません。
ただ、どこかに掴まって思い留まりたいという意志がある誰かがこの投稿を見つけ…

これ以上は後書きか、または別の投稿で話すとしましょうか。
前書きからなにから読みにくい文章でしょうかね、なにはともあれ


遺書


常に言い続けてきたことですが
私には生きていく上での希望がない、というか人生で得られる対価が労苦に見合っていないと思っています。

28年間生きていれば色々なことを経験していて、もちろんまだまだ知らないことも体験していないことも沢山あるでしょう。
ただ、これから更に生き続けたとして、この先得られるものは過去得たものにカテゴライズされる程度のものでしかないのではないかと考えてしまいます。
この認識が、或いは他の様々な認識・思考の癖が私を絶望たらしめているとして、解決策を見出そうとすることにほとほと疲れています。

会話をするにはその気力も、頭もあまり働いていないと感じるため書くことにしました。

昨日今日の多くの時間は、「どうすれば楽に死ねるか」という方法を模索することに費やしました。
様々な自死方法を考え、インターネットで検索もしました。
方法は種々あれど、どうもしっくりきません。
最も楽で、苦痛も最小限に抑えられる自死の方法は「首吊り」とされているようです。
私の身長で首を吊れる高さ、重量を支えられる物質など考慮せずともドアノブを使う程度で自死の遂行は可能なようです。
しかしながら成功確率は下がるため、森の木を利用するなどした方がよいそうです。
電車に飛び込む、ビルから飛び降りるなど選択肢は数多ありますが、まずどこかへ行く気力も今はそうありません。

人間には通例生存欲求・本能なるものがあるらしく、確かに私ももれなくそれを感じます。
食べなければ、飲まなければ、眠らなければ、性欲を発散しなければ
身体からのサインを無視することも可能ですが、それはおそらく「死」に近づく行為であるため身体はさらなる抵抗を与えてきます。
故に今私は未だ「死んでいない」ようです。
また、「死」について思考することさえストレスになるようです。
人間は「他者の死」についても嫌悪感を示すようで、殺人事件や自殺の情報を獲得することはストレスとなっているように見受けられます。
宗教思想もまた「死」を避ける目的で考案されている部分があるでしょう。
輪廻転生・カルマを信奉すれば、自死や殺人を選択することへのブレーキがかかり得ます。
現世における業により死後の未来が変わる、という概念に従えば善行を積むことになるでしょうか。それでは「善行とは何か」という話にも波及しますが。
人を殺すな、自ら死ぬなどもってのほか、そんなこと言ってないで今を必死に生きろ。
これでは根本的な解決を成しているようには思えません。「死」という概念にとりあえずの蓋をしようとする、そんな一時的処置と言えるでしょう。
また「前世での業により現世で苦しんでいる」という言説は自己責任論を強めます。
「お前が苦しんでいるのは自業自得」、他者の苦しみを正当化するための武器となります。
公正世界仮説の強烈な信者の幸福度は高いようです。

何が本題だったのでしょうか、忘れてしまったというか、全てが本題の本質足り得るのでしょう。
つい書くことに熱中しているうちに希死念慮が少し薄れてしまったように感じてしまいますね、これこそまさに防衛規制と呼べるのでしょうか。
ああそうでした、人は死に触れることを本能的に避けようとします。
死に対する話題、もしくはそのものに触れている絶対的時間量を削減しようとするのでしょうか、私が長々と死について語ることが多々人々のネガティブな感情なるものを引き起こしてきた気がします。
日本において死について語ることのハードルは高い、というような話がありますがどうでしょうか。海外に住む友人達もまた一様に死の話題を有り難くは思っていないように見受けられますが。
まあ人種・性別・ジェンダー・セクシャリティなど問わず人は死について語ります。時に積極的に語る彼らを見ていると、この防衛規制が上手く働いていないのか、死に近づこうとしているようにも見えます。
自死について考えるという状態は「異常」である、とされるのが通例です。うつ病など精神的疾患により脳のホルモンバランスが乱れて〜何はともあれ確かに四六時中自死について考える、ということは私にとっても稀と言えるかもしれません。
過去幾度となく精神状態の増悪を感じていた時期などありましたが、今回本記事を執筆している現在のような状態は珍しく感じています。
大なり小なり自死について考えることは多々ありますが、実行に至るにはまたステージがあるということを改めて実感しました。

友人がもう少しで死ぬところだった、そんなことも幾度かありました。
彼らの状態を推し量ることは出来ませんでした。
気付かぬうちに、自殺に至る寸前のところまで精神状態が悪化していましたが、何の気無しに食事に誘ったことが友人を救ったということもありました。

さて、死後の世界は不可知です。
肉体の死、脳死、霊魂の死…死の定義もまた難しいところですが脳の停止、心拍の停止、蘇生の見込みがないなど判断基準があるようです。
とりあえずはここはあまり掘り下げず、抽象的に「肉体の死」を浮かべることとします。
この死後霊魂なるものが、天国や地獄なる世界へと移行する。
いや、死後そこには「無」しかない。真っ暗闇の中、何もない世界を知覚する自意識が存在するとされるパターン、若しくはこのような認識を行う意識存在すらも「無い」という意味での「無」を指すこともあります。
転生して現世に再度産まれ落ちる、畜生道か人間道か、何にせよ前世の記憶はない、とか。
罪によって霊魂は現世に残り得る、地縛霊が〜とか。
死後の世界というものを人間は想像してきたようです。

さてここで思うのは、「死ぬ」という行為はデメリットだらけというわけでもなさそうであるということです。
今現在、現世において強い苦しみを感じているとし、死によってその苦しみが和らげられるのであればそれは一つの解決策と言えるでしょう。
この「強い苦しみ」を取り除く手段が「死」のみしかない、とすることはおそらく誤りであるでしょう。
自殺志願者は実のところ「死」を望んでいるわけではない、現状からの脱却手段の一つが「自殺」であるというだけである。
通常時に比べた視野の狭窄、これこそまさに一時的なものであり気の迷いである、というような解説がなされます。
故にとりあえず飯を食べて、寝て、風呂に入ってなどなどして心身の状態を変化させることが推奨されます。
なるほどこの一時的思考を停止させるために「時間」もまた有用に働くことがあるようです。
ただこのような対処は応急処置でしかない、と捉えることもできるでしょう。
自殺未遂者はその後の生涯において自殺を試みることはなくなるでしょうか。
イエスアンドノーです。
自殺未遂後に重大な後遺症を抱え、後悔ののちに思考に変化が現れる。
逆にこのような後遺症によって更なる自殺願望を抱えるパターンもあるでしょう。
私が自殺について、実行に移そうとしたことは生涯において「3度」とカウントしています。
私自身がこのような自殺願望の根本的解決を成せていない一例であります。

生存本能とは面白いものです。
「自死」について考えると防衛機制が働き心理的負荷を得ます。
「自死」については考えるなよ、と身体が自身を救ってくれようとしてくれるようなのですが、この心理的ストレスが一定量を超えてくるとこのストレス自体を消し去るために「自死」に至るということが起きるわけです。
人類の進化の末に、何らか遺伝子に問題があるなど自覚した身体が自死を促すことで、このような遺伝子を後世に残さないとするようなアトポーシス的自滅プログラムのようなものが備わったなどどいうこともあるのでしょうか。

このような概念があるとする、また天国(この空間においては自身の願望が全て叶えられるとする)などという領域に行くことができるのならば喜んで自殺しよう、という思考もおかしくないと思うわけです。
天国で満たしたい願望があるでしょうか。あるとしたらその願望は現世界において達成可能な代物でしょうか。想像出来得る願望を叶えることは可能でしょう。ただその代償としての労苦を喜ぶか、喜ばないか。
やりたくないことを、したくないことを、なりたくないものになることを許容出来るか。
先天的要因か、または後天的要因か、どうやら何らかの自分ルールを自身に課しているようなのです。
過去やりたくなかったことを今やってみる、今したくないこともいつかやりたくなるかもしれない、なりたくないものになってもよいじゃないか。
思考は変わります、変えることができます。
明けない夜はない、と言いますがこの言葉は貴方に希望を与えますか? 絶望を与えますか?
早く明けてほしい夜、朝など来ないでほしいと願うこともあるでしょう。
朝など来ないでほしい、そう願うのは既に精神状態に異常がある。
自殺願望に対しても似たような反応を得られることが多いのではないでしょうか。
しかしながら夜型の人は朝など嫌いかもしれません。
朝方・夜型といったものが遺伝子によって先天的に定められているとしたら、夜型の人が朝起きることを嫌がるだけで「異常」であり、矯正されなければならないとしたらそれはどうなのでしょうか。

日本国における義務教育制度はどうなのでしょう。朝早く起きて学校に行かなければならないことが苦痛であるとしたら、フリースクールに行きますか? 通信教育を利用しますか? それとも学校に行かず現代のエジソンになろうとしますか?

このような選択の決定を幼少期の子供が行うとして、その選択は誰によって許可されねばならぬでしょうか。
教育機関によってか、保護者によってか、保護者がいなければ…
平等とは存在するでしょうか。
経済格差は教育格差を生みますか。IQが高すぎた彼女がギフテッド教育を受けられずに孤立し虐げられたとして、彼女は幸せになりますか。

原因論か目的論か。
なにはともあれ現状明日への希望は薄いです。
今までも幾度となく抱いた感情でしょう、同一のものとして身体は捉えているのでしょうか。
どうすればいいのか、分からないのです。
分からないということを伝えてきたつもりですが、人々もまた分からないようなのです。

皆さんは何を考えていますか。
時に分かったような気になります、貴方が、彼女が、彼が、道端の猫が、植物が、無機物にも感情があるとして扱うこともできるでしょう。
事実とは何でしょうか、解釈のみが存在しますか。
人々が悩んでいないように見えたり、何も感じていないように見えたり
哲学的ゾンビですか?

昨日今日とSNS上で話をした人々は私がこのような状況であることを知らないでしょう。
私も彼らの心情を知り得ないのです、同じように彼らも今日苦しんでいるかもしれません。
過去に私の自殺を止めてくれた友人がいました。
その時私は止めて「くれた」と感謝したか。
むしろ共に逝ってくれることを望んでいたような気がします。
またいつか来る苦しみを恐れて、終わらせたいのですよ。

友人とは、家族とは、愛とは。
いついかなる時も、何かが欠けている気がしてなりません。
誰と関わっていても、満たされぬ何かがあるような気がするのです。

承認欲求は、自己実現欲求は。
幼少から物質的豊かさを享受していたように思えます。
しかしながら精神的幸福を得られていたかと言うと疑問が残ります。
家庭環境、幼稚園など他のコミュニティにおける経験。
これらが影響を与えているでしょうか、はたして。

さてまあ種々の苦痛を世界から与えられたとして、反社会的パーソナリティを形成するでしょうか。
なるほどたしかに、ただただ虐げられた者が社会貢献を思うでしょうか。

したくないことが、なりたくないものがある。
ヒーローとは、ヴィランとは。
革命のための戦争は、テロリズムは。
善悪の基準はどこに。

それでもこのまま生きていれば私はなりたくないものになる、そう思ってしまうのです。
私が死を思うとき、理性の変化を感じます。
したくなかっただろうことをします、何を伝えたいのでしょう。
死について考えない時であろうと私は他者を傷つけます。
それは肉体的にも精神的にも。

世界は分からないし、自分という存在もわかりません。
現実存在、実存とは何ですか。
マトリックス仮想世界に生きていますか。

考えることをやめたいのでしょうか。

私の自殺は関係者にどのような影響を与えるでしょう。
与えないために生きるべきでしょうか。
生きていても、死んだとしても
私は常に世界に影響を与えます、多かれ少なかれ。

この世界に産まれた瞬間から、世界に対して。
物理的体積を、質量が、ああ疲れてきた。

美味しいものを食べると幸せですか。
美味しい飲み物を飲めば幸せですか。
睡眠がとれれば、金銭的自由があれば、容姿が良ければ、承認されれば。
私にはこれらが刹那的快楽であるようにしか思えないのです。

この刹那的快楽の連続が死を避けるための方法であるのでしょう。
わかりやすいもので言えばアルコールや薬物依存、これらはこのような刹那的快楽を引き延ばしてくれるに足る有用なものなのでしょう。

家族が癒すでしょうか。
友人が癒すでしょうか。
恋人が癒すでしょうか。
「愛」なるものが存在すると信じられたのなら生きられるのでしょうか。

貴方を愛しているつもりです、私なりの愛をあなたに与えているつもりです。
しかしこれもまたエゴです。
彼らを助けるのは対価としての利益を求めているからでしょうか。
無意識下にそのような考えがありますか。

私が電車で席を譲るのはなぜでしょう。
お金を貸すのは、道端で倒れている人を救いたいのは
私が「望む」からです。
彼らはそれを望むでしょうか。
もちろん望むこともあれば、望んではいなくても感謝を述べることもあるでしょう。
とどのつまり知り得ない。
解釈は可能です、良いことをしたと信じて生きることもできるでしょう。

けれども道端の彼を助けた代わりに親戚のおばさんが死にました。
彼女は自殺したようです。
私が留学をしていた間に、知ったのはだいぶ後でした。
何かできたでしょうか、したかったですね。
「愛」を「愛」と解釈する能力は存在しますか。
この能力はどのように培われますか。

これが「愛」である、そう言ってのける人達の言う愛は私に響かなかったりします。
精神的孤独は人を殺すのでしょうか。
因子はなにか、とりあえずのところ他者との差異を強く感じる私はどうしましょうか。
個性であるとして、それを誇りますか。
はい、たしかにそれも可能です。
なんやかんやで28年生き永らえてきたという実績もあるようですし、のらりくらりと手を変え品を変え努力をしてきたつもりでしょうか。
PDCAサイクルを最速で回し続けたのでしょうか、辿り着く先は「死」であるようなのです。
全ての生物に対して死は絶対である、果たしてそうでしょうか。
不老不死の概念は実在するのでしょうか。
目の前の人間がジュエリーボニーのような能力を有していないと断言できるでしょうか。
今ない技術が10年後開発されたことで不老不死は実装されますか。

知的好奇心の向く先が「死」であるというところもあるのです。
冒頭で述べたようにもう人生1周したわみたいな感覚があるのなら、「死」の先を見てみたくなりませんか。
これをしたらどうなるのか、人は時に好奇心から行動選択をします。
しかしある特定の行為は「社会的」に厳格に禁じられています。
ペドフィリア(小児性愛嗜好)は先天由来ですか、後天的なものですか。
殺人嗜好は、カニバリズムは、同性愛者は…
ゴミ屋敷を愛する人はどうでしょう。
ミニマリストはゴミを撤去しますか。

世界の平和を望むことはまた一つのエゴでしょう。
生涯戦乱に身を置きたい人と共存することは難しいでしょうか。
世界平和の定義をどこに置きますか。
現在の世界は平和であるとする人もいるでしょう。

性的被害とは誰が定めますか。
幼少期に受けた幸福が、「被害」であるとするのは何故ですか。
喜んで美味しく食べているその寿司の値段が最低レベルだということを知らずに生きれたのなら幸せですか。

私の思いは誰かを救いますか、それとも誰かを殺しますか。
休ませてくださいと願うのです。


後書き


そうですね、なかなか疲れていますのでとりあえずはここまでで。
下の記事は私のnoteプロフィール上に固定されている記事となります。
たった今誰でもいいから、なんでもいいから話を聞いてくれなどありましたらご連絡を。
即座に対応できるかは分かりませんがぜひぜひ。
誰かのために何かをできることが私自身の救いになったりもしますのでね。
他の記事とかなんやらも何かのお役に立てたなら喜ばしいことです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?