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「鞭で打たれてくれ」

そう言われたら許可するか、はたまた拒否するか。

「なぜそんな目に遭わなきゃいけない?」
ある者は言うだろう。

「もちろん、どんどん頼む。」
マゾヒストにとっては快楽だろうか。

「時給1万円ならいいよ!」
分かりやすい対価だ。

さて、おそらくそこらの人々は題のような発言を受けた場合
「なぜ?」、「なんのために?」
そんな疑問を抱くのではないだろうか。

「鞭で打たれる」

それは強弱によれど、「痛み」を受けることと同義。
(痛覚麻痺などは例外として、鞭で打たれることで痛みを体感することは不可避である、とここでは仮定しておく。)
人間の身体メカニズムにおいて、この「痛み」は優秀である。
痛みという「身体的負荷(ストレス)」によって我々は、自身における何らかの異常に気づくことが出来たりする。
そう、痛みはストレスだ。
人間はストレスを最大限避けようとする。
本当だろうか?
鞭で打たれて痛む、そんなストレスを受けることも、金を貰えるならば厭わないとする者がいる。
また、痛み自体を快楽と捉える者にとって、このストレスは報酬となる。
彼らはストレスを避けない。

「ああ今日は疲れた、けど明日のテストのために勉強しよう。」

疲労の中勉強することにより受ける身体的・精神的負荷(ストレス)の代償として、明日のテストの結果を、若しくはこれに付随する未来の報酬を期待する。
そうだ、人は必ずしもストレスを避けない。
ストレスの対価として得られる何かがあれば、人は耐えることが出来る。

それでは突然予期せず鞭で打たれたらどうだろう。
やはり疑問を抱くだろうか。
「なんでこんなことをする?」、「慰謝料を払え!」
鞭で打たれるのには理由が要る、代償が必要だろう。

それでは、日々鞭で打たれることが恒常化している者はどうだろう。

「今日も私は鞭で打たれる、なぜこんな目に遭わなければならないのか、ああきっと私は選ばれし者なんだ、試練を与えられているんだ、これが終われば、私は何かしらの恩恵を得られるんだ。」

「金銭のために鞭を打たれよう。」
これはある種、自主的な選択と言えるだろうか。
彼女/彼 は実際に、対価として金を得ている。
打たれる理由が分からぬ者は、自ら理由を策定する。
そうしなければ辻褄が合わない、分からないことのストレスには「耐えれらない」からだ。
マゾヒストはどのようにして生まれるのか?
先天的な要因か、はたまた後天環境により、マゾヒストとして「生きざるを得なくなった」か。

「今日も私は鞭で打たれる、なぜこんな目に遭わなければならないのか、ああきっと私は選ばれし者なんだ、試練を与えられているんだ、これが終われば私は何かしらの恩恵を得られるんだ。」

このような思考は楽観的、とても平和に思える。

「私は鞭で打たれて当然、私は非道い人間なのだから、前世でも悪虐を尽くしたのだから。」

宗教によるコントロールもまた、有用な手段だ。

「どうしてこんな目に遭わなければならないんだ、こんな目に合わせた奴らが憎い、復讐してやる。」

私は長門(NARUTO)が好きだった。
彼の思う「痛み(ペイン)」についてだが
世界に痛みを与え、人々にそれを理解させることで平和を創ろうという思想には、一理を感じる。

人は痛みを抱えることが出来るだろうか。
あらゆる痛みを一身に引き受けて、それを受け入れた上で、他者に優しく出来るだろうか。
受けた痛みを誰かに返さずに、自分を傷つけることで、その場を流せるだろうか。
原子爆弾は人々に争うことの痛みを、正しく理解させただろうか。
日々人が様々な理由で死んでいくことに、慣れていくことが正解だろうか。
ああ今日も殺人事件が、どこかで飢え苦しんで死んだ奴が、自ら命を絶った彼女が…

考えることは正義か?
考え過ぎて死んでいった彼は、世界に悲しみを遺さなかっただろうか。
考えないことが正義か?
もっと考えた方が良いのかもしれない、そんな思いを片隅に感じつつも、酒に酔って忘れておけば、今日は一安心だろうか。
考えさせることは正義か?
何一つ不安などなかった少女に世界の苦しみを吹聴することで、誰かが救われたか、あるいは絶望を伝播させただけだったろうか。
考えさせないことは正義か?

「能天気に生きてられるのが幸せさ。彼らのその平和を守るために、俺達考える奴だけで集まって、なんとかしようぜ。」

あいつにはどうせ分からない、そう言って頼られるのは「分かってしまう」奴だ。
分かってしまう、考えられてしまうからこそもっともっと
考えさせられる案件が舞い込んでくる。

「考えすぎだろw 気楽にいけよもっと笑」
ああ、こいつには分からないだろうな。

それでもまだトライするか?
まだやってみようと思うなら、いつでも私を頼ってくれ。
私も君に頼らせてもらうとするよ。
そしたら行ける気がする。

頼られてばかりの君が頼ることが出来る、そんな存在でありたい。
頼ってばかりだ、そう嘆く君が頼られる存在になる、その手助けをしたい。

助けているという感覚、そして助けられているという感覚。
1:9だと自立感が持てないか?
9:1だと報われないか?
3:7ならもっと力になりたいか?
0:10こそ至高か?

孤独をかき消す為の議論なら実用性がないのか?

まあいい、10000日経った後に期待するとしよう。

私の記事が、何らかの形で貴方のお役に立てたら幸いです。 もしサポート頂けましたら更に幸いです🥲