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僕の第1次森高ブームとブームの終焉、そして第2次森高ブームに至る雑文①

記憶が残ってるうちに経緯を記しておこうという備忘録雑文です。

2000年代のある日。十代半ばだった僕は、実家の押し入れの中にあるCDが満杯に詰まった段ボール箱を漁っていました。床が抜けそうなほどあるCDコレクションはすべて兄の所有物。洋楽マニアの兄のCDコレクションなので、目に入るタイトルはすべて英語かカタカナです。

その時、ある漢字が目に止まりました。「もりたかせんり?」

当時森高千里という固有名詞が僕の中にあったかどうかは定かではありません。兄は本当に洋ロック8割・ジャズ1割・クラシック1割しか聴かないような世捨て人で、僕の洋楽趣味の師匠筋にあたるロクでもない人間だったので、邦楽CDがあるのは相当珍しいことでした。

「ああ、森高千里な。昔好きだった女」(原文ママ)

取りあえず抜き出してみると、綺麗な女性がジャケットの邦楽CDでした。

出会いは『DO THE BEST』

「昔ファンクラブ入ってたし、ライブ会場にも会いに行った。探せばアルバムとリミックスは全部あるはずだべ」(原文ママ)

森高の初回限定盤CDは三方背ケース仕様でミニ写真集ブックレットがついているのがセオリーです。兄所有の『DO THE BEST』も初回限定盤なのでミニ写真集がついていました。その時にこのベストアルバムを聴きながら写真集をめくりましたが、森高の音楽よりも森高の美しさに引き込まれた記憶の方が強いです。

正直言って、初めて森高の楽曲を聴いた印象は、それほど芳しくありませんでした。僕がヘヴィなロックの愛好者だったこともありますが、こんなに美人なんだから、別に歌手じゃなくて女優かモデルで良かったのにというのが正直な感想でした。

兄は『私がオバさんになっても』の歌詞を激賞していますが、当時の僕には凄さが良く分かりません。

「おめえ馬鹿だな。歌詞書くのって物凄く大変なんだよ。作曲より作詞が楽だと思ったら大間違いだからな」(原文ママ)

兄に何か好意的な感想を言わなきゃ殺されると思い「声が可愛い」とお茶を濁した見解を述べた記憶があります。それでもその時点で森高のヴィジュアルに惹かれかけていたのは間違いありません。

それから何日か経って、僕の森高への評価が沸騰する出来事が起きます。兄が押し入れのさらに奥からLDを何枚も引っ張り出しました。
すべて森高のライブLDでした(VHSもあったはず)。

「もうファンじゃねえよ。森高は他の男のものになっちまったし」(原文ママ、というか馬鹿だろ兄貴)

と言ってた兄が、何故か必死になって弟に森高を布教している姿は不思議なものがありました。そんな兄が真っ先に再生したライブLDが『Lucky 7 Live』です。これが僕の森高に対する評価をガラリと変えます。

ステージ上の彼女が発するオーラに圧倒されたのです。

常日頃、楽器演奏の権化たち(ジョン・ボーナムやジミ・ヘンドリックスやジャコ・パストリアスみたいな連中)の演奏を見聞きしてる僕からすれば、森高は歌もドラムもキーボードも別に上手くはないし、ギターなんかはかなり下手です。そんなことは当然兄も承知しています。

ですが、森高の美しさと表情、音楽を伝えよう、ライブを楽しもう、みんなも楽しんでという姿勢に心を揺さぶられました。そうすると彼女の歌声が自分に入ってくるのです。CDで聴いて何も感じなかった『私がオバさんになっても』も言葉の説得力が段違いになって受け取れました。

このライブLDの特筆すべき点は、森高にあてられた観客の歓声が森高に返ってくる→森高のテンションが上がる→それを見て観客全体もノリノリになる→大きくなった観客の興奮が再び森高へレスポンスする。そんなライブ特有の高揚感が異常でした。
それがダブルアンコール『コンサートの夜』の森高の涙で頂点に達するのです。

『ストレス』の早口言葉でエプロンを握りしめる森高

実際、この日の東京厚生年金会館のライブが森高のライブ史上最も盛り上がったライブだと言われています。普通どんなライブでも終演とともに、下手をすれば終演前に帰りの交通機関へダッシュするものですが、観客がみな呆然として誰も帰ろうとしないのです。

僕は兄からLDをレンタルするという形で引き継ぎ、森高ワールドにどっぷり浸かることになりました。それからの数年間、通学中は森高のCDを聴き、帰宅すればライブLDをループ再生する幸せな日々が続きます(それまで聴いていた洋ロックの合間にですが)

という訳で②の「Loma、ファンやめるってよ」に続きます。

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