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【小説】青い鳥は囀らない

 彼は、幸せが欲しいのだと言った。

 部屋にふわりと紅茶が香る。水を深いルビー色に染める茶葉は、その一杯分だけでも私たち使用人のひと月分の食費よりずっと高価だ。
 添えたミルクも砂糖もいれず、彼はゆったりと香り高い液体を飲む。それだけの仕草ですら、恵まれた者だけがもつ余裕が気品となって漂う。

 広く豪奢な屋敷で、麗しく優しい伴侶と愛らしく賢い子供とともに、一生かけても使いきれない財で暮らす。
 誰もが羨み、しかし決して手にはいらないものを、彼はもっていた。

 部屋中に吊られた籠のなかで、鳥たちがさえずる。高く、低く、複雑な旋律が絡みあう歌は甘く華やかであった。

 私は一羽ずつに餌を与え、抜け落ちた羽根を集める。綿毛のような羽根や艶のある羽根は美しく、しかし彼が気に留めることはない。

 壁には額におさめられたあらゆる鳥の絵とタペストリーがかけられ、棚にはさまざまな鳥を模した置物が並べられている。素朴な雰囲気のものもあれば、写実的な作品もあるし、私ごときでは理解できない前衛芸術まで、鳥であるという条件だけで集められた品々は圧巻であった。
 しかし、これらも彼の興味をひくことはない。

「旦那さま、いかがいたしますか」

 集めた羽根を恭しく彼へと掲げる。彼の目はちらりと私の手のなかへ向けられたが、すぐに紅い水面へと戻った。

「処分しておけ」
「かしこまりました」

 ご子息、ご息女にでも差しあげれば喜ぶかもしれないが、彼は少しもそんなことは考えないようだった。第一、彼はこの部屋に自分と一部の使用人しかいれさせない。奥方は彼の収集癖を知っているが、見て見ぬふりを貫いている。

 世界中から集めた鳥、鳥、鳥。
 まるでこの世に存在するすべての色を集めたように、目にも鮮やかな鳥たちがこの部屋には詰めこまれている。
 だが、彼が求める鳥だけがいなかった。

 彼が求めるのはただ一羽、青い鳥である。

 財と伝手を惜しみなく利用し、彼は青い鳥を集める。
 彼の手にかかれば、求めたものはすぐに彼の手元へと届いた。そして、彼のものになった途端、青い色を失った。

 東の行商から買った剥製の鳥は、内側からインクが染み出したように黒に変色してしまった。
 西に住む友人から贈られた鳥の絵はたちまち日に灼けたように色褪せてしまった。
 南から取り寄せた鳥は青い羽が抜け落ち、鮮烈な赤色になってしまった。
 北を旅行した際に土産とした陶器の鳥は塗装が剥げて白い置物になってしまった。

 抜けるような空の青も、深海のような静かな青も、宝石のように光輝く青も、彼の手に渡ると失せていく。
 それでも彼は青い鳥を集め続け、この部屋にはさまざまな鳥であふれるのであった。

「幸せが欲しい」

 彼は青い鳥を求める理由をそう語った。

 彼は誰よりも恵まれていたが、彼自身が努力して得たものはひとつもなかった。
 屋敷も財も先祖代々受け継いだものであり、伴侶は親が数ある縁談のなかから厳選した女である。生まれながらの才能は特別な努力をせずとも彼を生かした。
 そんな何もかもをもっている彼が唯一もっていないもの、それが幸せというものだった。

「幸せというものがわからない。幸せの象徴だという青い鳥を、自分で手にいれることができたら……そしたら、幸せが何なのかわかるかもしれない」

 囀る絢爛けんらんに囲まれた彼の声音は淡々としていた。馥郁ふくいくと香る紅茶に落とされた視線は一点を見つめているようで、その実どこも見てなどいなかった。
 鳥の囀りは彼の耳には届かず、目が覚めるような色彩は目にはいらないのだ。

 籠のなかの鳥が羽ばたいた。空を飛ぶことが叶わないとわかっていても、鳥は大きな翼を激しく動かす。せっかく片付けたのに、光沢のある翡翠の羽根が舞い散った。

 それを拾っていると、コツコツとノックの音が響いた。
 彼の目が私を促すのを確認し、静かに、しかし素早く扉を開ける。
 扉の向こうに控えていたのは屋敷の使用人のうちのひとりだった。
 彼女は私に言伝を預けると、そそくさとその場を辞す。どうやらこの部屋は皆にとって長居したい場所ではないらしい。

「旦那さま。ご依頼の品が本日発送されたそうです」

 彼が頼んだのはガラス製の鳥のオブジェだ。水面みなもを思わせる透き通る青が美しい一点ものである。

「問題なければ、明日の正午には届くかと」
「そうか」

 投げ出されるようだった視線はガラスの鳥へと馳せられ、生気の希薄だった瞳は期待によってほんの少しだが輝きを帯びる。

 どうせその鳥も彼の手のうちで色を失い、まっさらなガラスになってしまうだろう。
 だが、もしかしたら、今度は違うかもしれない。揺れる水面のような青を残したまま、彼の幸せの象徴になるかもしれない。

 彼は何度失おうとも諦めなかった。
 いつかは自分も幸せというものを得られるのだと信じているのだ。
 たとえ今回が駄目でも次回こそと手を伸ばし続ける。彼は決して振り返らない。ただただ先を見据えている。

 だから彼は気づかない。
 私の背に、青い羽があることに。

<終>

最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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