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【小説】白樺の森の魔法使い

 白樺の森の近くには魔法使いが暮らしている。ひとあたりがよく、博識な魔法使いだ。

 カズサは親に持たされた土産の焼き菓子と葡萄酒を携え、魔法使いの家の玄関を叩いた。頑丈だが小さな小屋だ。なかにいればすぐに気づいてもらえる。だが、幾度叩けども返ってくるのは静寂ばかりで、もしやと考えたカズサは小屋の脇に立つ温室を見た。

 魔法使いの温室はふたつある。ひとつは薬草を育てている四角い形の小屋で、硝子越しに草木が茂り、黄色や紫色の花が咲いているのが見える。しかし、人影はなく、カズサはもうひとつの建物へ目をやった。
 こちらの鳥籠のような形をしている冷温室も硝子張りになっているのだが、霜で曇っていてなかのようすを窺うことはできない。

 カズサは少しだけ迷い、冷温室の扉を叩いた。ひやりとした冷気が軽く握ったこぶしを触れる。
 ややあって、曇った硝子の向こうで影が揺らめき、ゆっくりと扉が開いた。

「やあ、カズサ。いらっしゃい」

 抜けるような青い目を眠そうに瞬かせながら、魔法使いが微笑んだ。ともに忍び出た冷気がカズサの足首を撫であげ、ふるりと身を震わせる。

「今日はどうしたの。誰か体調でも崩したのかな」
「ううん、皆元気だ。今日はこれ、お裾分け」

 バスケットごと魔法使いへと差し出す。

「木の実のパイ、母さんと妹が沢山作ったからって。それから、今年の葡萄酒」
「ありがとう。アンナたちのパイ、美味しくて好きなんだ。でも、葡萄酒まで」
「これは村の皆から。受け取ってよ。葡萄酒を作れたのはイユのおかげだから」

 今年の葡萄酒が無事に完成したのは、病に侵された葡萄畑をこの魔法使いが救ってくれたからだ。だからこの葡萄酒は村の皆からのお礼の気持ちなのだと付け加えると、ひとのよいイユはおっとりと微笑んでボトルを受け取った。

「そういうことならいただくね。そうだ、カズサ。せっかくだから、お茶をしておいきよ」
「えっと……」

 魔法使いの誘いにカズサが迷いを見せる。ちらり、と霜に覆われた冷温室へ向けた視線に、すかさず気がついたイユが鷹揚に頷いた。

「見るかい」
「……いいの?」
「特別だよ」

 きい、と小さく音を立てて扉が開かれる。凍てつく空気に目を細めながら、カズサは高鳴る胸をそっとおさえた。

 霜が降るほど寒い空間のなかで、蒼い蔓草が黒い支柱に絡み、白く小振りな花が鈴なりに咲いている。そして何よりカズサの心を惹きつけるのは、周りをふわふわと舞う蝶であった。透明な翅は羽ばたくたびに淡い虹色に輝き、一度として同じ光景を形づくることはない。だからカズサは一瞬一瞬を目に焼きつけるように熱心にそれらを見つめた。

「そんなに熱い視線を向けられては、溶けてしまうかもしれないよ」

 ふふ、とイユが笑みをこぼし、カズサがはっとしたように魔法使いを見やった。ほう、と吐き出した息が白く染まる。

「だってこんなに綺麗なんだもの」

 いつまでも眺めていたい。鼻先をすっかり赤くしたカズサがそう言うと、魔法使いはゆったりと笑みを深くした。
 蝶のかすかな羽ばたきが、硝子をすりあわせたときのようにしゃらしゃらと鳴っていた。



 魔法使いは寒さが緩みはじめた時期に七日ほど留守にする。一年に一度、大事な友人に会い行くのだ。
 一張羅の繊細な刺繍と水晶の欠片が施された白いローブをまとい、魔法でできたあの蝶を数匹携えて王都のほうへ出掛ける。繊細な蝶は外気のあたたかさで溶けてしまうから、厳重に魔法をかけたランタンに似た籠にいれて持っていくのだった。友人のもとで語らい、そして向こうで買った服や本や美味しいお菓子をお土産を手に帰ってくるのが習いだ。

 ところが、今年は八日をすぎても帰ってこなかった。次の日も、次の日も帰ってこない。
 村の大人たちは、あちらで何か用事があったのだろうと言って特段焦る様子もなかったが、カズサはもうイユが戻ってこないのではないかと不安でしかたがなかった。
 この村には立派な葡萄畑があるけれど、王都のようにお洒落なブティックも大きな本屋も豪華なレストランもない。イユがあの華やかで賑やかな街のほうが気に入ってしまったら、そしたらきっと、もうこの村には帰ってこない。それに、王都にはイユの大事な友人がいるのだ。あちらのほうがイユにとって魅力的なのではないか。カズサはずっとそれを恐れていた。

 魔法使いからの手紙が届いたのは十二日目のことであった。そこには端正な字で、友人の体調が芳しくないから当分の間つきそうと書かれていた。いつ帰るかは記されていなかったが、帰って来る気はあるのだ。
 カズサはひとり、ひっそりと息をついた。

 それからまたしばらくして、イユから手紙が届いた。友人の葬儀があるのでまだ帰れない。そう書かれた字はいつもよりか細く、ところどころにインク溜まりがあった。
 お気の毒にねとくちにする大人たちを尻目に、カズサは魔法使いの温室を見に行く。蝶がいる冷温室は霜で曇っていて、いつものように何も見えなかった。



 目が覚めたカズサはベッドのうえでむくりと上半身を起こした。開いたカーテンの隙間から覗く空は、まだ朝日が昇る前の薄闇に染まっている。
 カズサは一度目をつむり、それからまた開いた。胸騒ぎというやつだろうか。どうにも落ち着かなくて、ベッドから抜け出した。

 イユという魔法使いは、カズサが生まれるずっとずっと前から白樺の森の近くで暮らしている。まだ物心つく前のカズサが熱病に罹ったときに助けてくれたのはイユだったし、カズサの母親であるアンナが生まれるときに不在だった産婆の代わりになってくれたのもイユであった。
 カズサだけではなく、この村に住むひとたちは皆、何かしらイユの世話になっている。地域によっては魔法使いのような人間でないものを厭うところもあるらしいが、ここでイユを嫌うものはいないのだった。

 寝間着に上着を一枚羽織ったカズサは心の思うまま、昏い道を魔法使いのもとへと走る。家々はひそやかに眠り、夜の名残の星だけがその姿を見ていた。

 やがてたどりついたイユの小屋は、窓が細く開けられている。

「イユ、イユ」

 夜更け前の静寂に、カズサの呼びかける小さな声がぽつぽつと落ちる。窓からなかを窺うも、暗がりに沈んだ室内にひとの気配はなかった。
 周囲を見渡し、今度は冷温室のほうへと小走りで向かう。

「イユ」

 呼びかけてもやはり返事はなかったが、白にくぐもった扉は簡単に開いた。ほう、と吐く息も瞬く間に白に染まる。
 魔法が使われているのか、外装より広く感じる室内を進んだ。一歩足を踏み出すたび、さくりと霜柱が崩れていく。さくり、霜柱が崩れる音と蝶が飛び交うしゃらしゃらという囁きがカズサの耳朶を撫でる。

 ここに魔法使いはいないのかもしれない。そんな不安が頭をもたげた頃、ふいに白い背が蒼い葉の合間に現れた。
 村を出たときと同じ出で立ちで、魔法使いが佇んでいる。

 すぐにでも声をかけたかったのに、不思議と声が詰まった。名前のかわりに色づいた呼気がふわりと宙にほどける。

「――ひとの生は儚いね」

 鈴が鳴るように、魔法使いの呟きが響いた。

「ちゃんとわかっていたのにね。穏やかな最期だったんだ。お別れも、愛してるも、きちんと言葉にして伝えたんだ。心の準備だってずっとしてた。いつか絶対来ることだって、わかっていたから」

 でも、こんなにさみしい。

 イユが天に向かって手を伸ばし、その長くすらりとした指先に蝶がとまった。はたはたと翅を開いたり閉じたりしていたかと思うと、ふうと眠るように静かになる。
 朝日が差しこみ、振り返った魔法使いの顔を照らした。穏やかに微笑む表情が眩い光のなかできらめく。

「精一杯愛したんだ――今でも、愛しているんだよ」

 ぱりん、と涼やかな音がした。

 思わず天井を仰ぐと、冷温室を囲んでいた硝子がはらはらと剥がれ落ちるようすが目にはいる。雲母のように薄いそれは、地に立つふたりに触れる前に消えていった。

 これは、イユの友人のための魔法だった。役目を終えた魔法はよりあわせた糸がほどかれるようにばらばらになり、魔力はイユのなかへと戻っていく。

 大きな籠から解放された氷晶の蝶は次々と天に昇る。遥か頭上で白々とした朝の光を受け、しゃらしゃらと鳴りながら溶ける。水滴ひとつ残すことなく、空中に溶けていく。イユの魔法がとけていく。

 じいっと見つめていると、魔法がとける音に混じって何かが軋む音がした。それはよくよく耳を澄ませると、カズサ自身の胸の奥から聴こえてくる。

「やさしい子だね。きみが泣くことはないんだよ」

 カズサの眦に触れたイユの細い指は、春を宿したようにあたたかだった。そのせいか、よけいに涙があふれてくる。
 からだの中心ではますます軋みがひどくなり、とうとう痛みすら出てきた。痛みを散らすようにまばたきをしたけれど、涙がころころと流れるだけだった。

 イユの友人、ほどけていく魔法の光景、そしてイユからそそがれる眼差し。そのどれもがカズサの心を揺さぶった。どれもがカズサの知らないもので、どう受けとめればよいのかわからなかった。
 イユのために泣いてるわけでもなかったけれど、それをくちにしようとしたところで舌がもつれ、涙に溺れるような心地がするばかりだった。
 それに、こんな気持ちをイユにぶつけても困らせるだけだとわかっていた。ただでさえ自分はまだ子供で、今だって十分困らせてしまっているのに、これ以上イユにそんなふうに思われるのは嫌だった。

 ぼやけた視界で、魔法使いの笑顔も、その身を包むローブも、硝子の破片も、虹色の蝶も、淡く輝く。きしきしと、薄い胸が痛む。

「ぼくもさみしいよ、イユ」

 やっとカズサが絞り出した言葉を聞いたイユの澄み渡った青の瞳が見開かれる。それから、困ったように眉をさげた。

「ありがとう、カズサ」

 やわい頬を転げる涙を、魔法使いが飽きず掬う。
 ぬくもりが触れるたび胸の軋みは強くなり、とうとうカズサは強く目を瞑った。それでも、眼裏で虹色がはらはらと舞い続けていた。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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