【小説】人魚姫なんかじゃない
鈍色の海だった。荒れ狂う波はよく砥がれた刃物のように光り、痛みすら感じなくなるほど冷たかった。
そこから私をすくいあげた手は大きく、ちから強く、あたたかかった。
当時のことはあまり覚えていない。男がずっと声を張りあげ、私を呼んでいた。私の名前ではない名前で、必死に私を呼んでいた。
「みさき、寒くないか」
「うん、大丈夫だよ」
「嘘をつけ。こんなに手が冷たいじゃないか」
「それは洗い物をしてたからだよ」
「……女は冷やすとよくないと言ってたのは、みさきだ」
「そう……そうだったかもしれない」
男は私のことを『みさき』と呼んだ。私の本当の名前にはかすりもしない。
日に焼けた手が私の冷えた手に触れる。彼の手がかすかに震えていることに、私は気がつかないふりをする。
私を海から引きあげたのは漁師の男だった。集落のはずれで暮らす、物静かな男である。
彼は飲んだ海水を吐かせ、冷え切ったからだをあたため、自らの住居を提供し、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。失くさないよう、壊さないよう、慎重すぎるほど慎重に私を扱った。
どうやら彼は、私を誰かと勘違いしているらしい。それが『みさき』であった。
どれだけ似ているのか、その容姿や人柄を確かめるすべはない。
たまに顔をあわせる村人たちも、私のことを『みさき』と認識していた。私の外見が彼女に似ていたからではなく、『みさき』と他人である私の区別がつかないくらい村人たちは彼女と交流がなかったのだ。
男の夢想につきあってもいいかもしれない。どうせ、自ら海に投げ捨てた人生だ。私は記憶を失ったことにして、誰とも知れぬ『みさき』として生きる選択をした。
凍てつく波にもまれ、削られ、からっぽになった私が生きるためには、そうするしかなかったのだ。
潮が絡みつく。慣れない海風が私から体温を奪っていく。
すると男は、あらゆる手段で私をあたためた。食べ物でなかからあたため、衣服でそとからあたため、最後には肌を重ねてなかからも、そとからもあたためるようになった。
彼の荒れた働き者の手は、私に触れる瞬間、小さく震える。
哀しいくらいに恐る恐る、私の無防備な皮膚を撫でさする。
ささくれた指先が愛しさをのせて動き、乾いていた身を、心を潤す。
「はじめてみさきを海で見たとき、人魚がいると思ったんだ」
「人魚……」
「うん……みさきは、泳ぐのが得意だから」
彼はいつだって多くを語らず、『みさき』の記憶をもたない私に過去を求めることもしなかった。ただ時折、思い出したようにひと言、ふた言、彼女の話をした。
泳ぎがうまくて、いつも海に行っていた、私の知らない私の話。
「みさき」
彼が私を見つめながら、私ではない誰かの名前を呼ぶ。
冷たい海から私をすくいあげた手が、壊れ物にでも触れるように私の肌をなぞる。
昔聞いた話によると、人間に触られた魚はその温度の違いから火傷を負うらしい。冷たい水中で生きる魚にとって、人間の温度は高すぎるのだ。
では、人間と魚の特徴をあわせもつ人魚はどうなのだろう。陸の王子に恋した人魚姫は、人魚のまま想い人に触れることはできたのだろうか。その身は焼かれ、爛れはしなかったのか。
そんなくだらない妄想が泡のように浮かんでは消える。時間も感情も泡沫だ。ぽこりと浮かんでは弾けて消える。
彼の手が、唇が、探るように輪郭を撫でていく。
人間である私の肌はその高い体温に触れられても爛れることはない。綺麗なまま彼に愛され、温度は溶けあう。
「みさき」
縋るような声に私は頷く。
私は彼の名前を正しく呼べているだろうか。
私のくちからこぼれたはずの男の名前は、泡沫のごとく空中に消えていく。だから幾度も、消えてしまう前に繰り返す。
そうすると、彼も返事の代わりに名前を呼んでくれるのだ。彼のくちから紡がれるのは、私であって私ではない名前だけれど。
それでもよかった。
交わった瞬間、『みさき』である私はあたたかく潤う。身も心も満たされて、私は『みさき』になって、あたたかなものに溺れる。それはとても気持ちがよいことで、私が『みさき』でなければ得られないものであったから。
うえもしたもなく、彼のささくれた指先から注がれる愛をただただ享受した。
決してひとつになれない私たちは布の海に溺れ、溶けあう。
彼はことが終わっても私を抱きしめたままでいるのが常だった。
ぬくくて、少しだけ息苦しい。
眠れないからだを持て余し、彼の腕の隙間から暗がりを眺める。
ああ、そういえば、物語の人魚姫の身は焼け爛れることはなかったけれど、足を得ることで声を失くし、鋭い痛みを感じることになったのではなかったか。
歩くだけでも硝子片が突き刺さるような痛みに耐えてまで、彼女は王子のそばにいた。自身の選択に後悔し、海の底や家族が恋しくて眠れない夜もあっただろう。
泡となり、消え失せえた日、彼女はなにを思ったのだろうか。名前すら残らなかった彼女は彼の前から消え去るとき、なにを。
私は人魚姫ではない。海の底に沈めた過去を惜しむことはない。二本の足は間違いなく地を踏みしめ、以前の私を取り戻したいとは思わない。
それなのに、彼が私を別人の名で呼ぶたびに心臓が冷たくなっていくような気がした。
私は『みさき』であって『みさき』ではない。
最後に残った自我の欠片が、私を呼んでと切望している。『みさき』というたった三文字の響きに冷たい心臓が、違うと脈打つ。
愚かなことに、私はどうしても、まことの意味で私を捨てることができないのだ。
小さな頃は、物語の姫が自分を好きにならない王子を殺すことを戸惑う気持ちがわからなかった。胸にナイフを突き立てれば、痛みからも迫る死からも逃れられるのに。
物語の王子も、目の前の彼も、何も知らずに眠っている。無防備な寝顔は穏やかで、私たちが冷たいナイフを秘めているなど夢にも思わないのだ。
彼のあたたかく、乾いた胸へと頬を寄せた。くすぐったかったのか、彼は小さく身じろぐと、私を抱えなおす。
これだけ触れあっても私の肌は焼けることも、溶けることもない。
ふう、と吐いた溜め息は彼の体温のようにあたたかく、湿っていた。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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