【小説】虫の弔い
「──昔、虫を……飼っててね……」
「……むし……」
カーテンの隙間から差しこむ冬の弱くも清々しい朝日に似つかわしくない話題に僕の寝惚けた頭は気の利いた返答などできず、かろうじて単語を繰り返す。
「そ。虫……」
人間ふたりぶんの体温でぬくまった布団に鼻先まで埋めたまま、きみはまだ語尾に眠気を漂わせながら言った。聞き間違いではなかったらしい。
「虫……」
まだふやふやとした脳みそで思い出すのは虫にうろたえるきみの姿だ。
まだ虫が活動的だった時期、洗濯物を干すために開けっ放しにしていたベランダの窓から侵入してきたテントウムシにビビッて部屋の隅の壁に張りついていた。
それから、スーパーで買った小松菜を洗っていたら転がり出てきたシャクトリムシに悲鳴をあげていたこともあったっけ。半日もの間、冷蔵庫の野菜室にいたシャクトリムシは可哀そうにすっかり弱っていたのに、きみはすっかり腰を抜かしていたんだ。
「虫って……きみ、虫苦手じゃん……」
「小さい頃は大丈夫だったんだよ」
チョウやアリにすら怯えるきみが虫を愛でる姿など想像できない。
そう素直に告げると、きみは毛布のしたでツンと唇を尖らせた。ふとした仕草が幼いところが長所であり短所である。
「小学校のとき、授業で原っぱに虫取りに行ったんだよね」
そういうの、なかった? と尋ねられ、そういえばあったかもしれないと思う。
ああ、そうだ。校外学習か何かで、小学校の近くにあった大学の畑まで虫籠や虫取り網を片手に向かったのだった。
秋頃の茶色のすかすかした草っぱらでコオロギやバッタを追いかけ、捕まえた虫の大きさや数、珍しさで競いあった。はじめは嫌がっていた一部のクラスメイトたちも最後には夢中になって虫取り網を振るっていたし、きみもそういうタイプだったのかもしれないね。
「うん、そんな感じ。最初はさ、飛び回ってる虫が怖かったんだけど、一度捕まえると……こう……だんだん楽しくなってきて」
「狩猟本能が刺激されたのかな」
「かなぁ。あとはさ、収集欲が満たされるというか……」
きみはそう言いながら眉をひそめた。自分で話しながら、虫でいっぱいになった籠を想像したのだろう。
滑稽で微笑ましいようすに思わず笑えば、きみのあたたかくてかわいた素足が僕の脚を蹴る。
すると毛布が跳ねて冷たい空気がはいりこみ、僕たちはすぐに互いの脚を絡めた。きみの綿の寝巻が僕の素肌をさらさらと撫でる。僕の寝巻はハーフパンツなのだ。
並んだふたりぶんの布団はすっかり同化して、ひとつのものになっている。それに包まれた僕たちはふたり、暖を与えあうように決してひとつにはならないからだを寄り添わせていた。
冷たい世界のなかで、ここだけにぬくもりがある。そんなふうに勘違いしてしまうほどに心地がよかった。
目が覚めてきたきみは直線的な眼差しを僕へ向けながら、そういえば、と続ける。
「虫にもランクがあって、カマキリとか、トノサマバッタを捕まえたひとが偉かったんだよね」
「あった、あった。でも、全部一緒くたの籠にいれちゃうから、気がついたらカマキリがほかの虫喰ったりしてたな」
「うわあ……」
「一応、学校に戻ってから観察して、それが終わったら逃がすってことになってたと思うんだけど……」
急に大量の子供が押し寄せてきたと思えば追いかけられ、捕まれば狭い箱に閉じこめられて。逃げ場もない空間、弱ければ喰われて終わり。たとえ喰われなくても、支配者の気が変わらなければ一生閉じこめられたまま。運よく逃がされても、そこは自分の知らない土地──なんてこともあるのだ。
無邪気な僕らがつくった小さな地獄。
「あらためて思い返すとえげつないな……」
自然と親しみ、生命の尊さを学ぶ授業のはずなのだが、虫からしたらたまったものじゃないだろう。人間とはとてつもないエゴイストだ。
そんな平穏で清らかな休日の朝に不釣り合いなことを考えていると、きみの脚が僕の注意を引くようにするりとなぞった。
「うちは捕まえた虫、持ち帰ったよ」
額にかかった僕の前髪をきみの指先がすくう。何が面白いのか何度も繰り返すけれど、くすぐったいのでそのいたずらな指をきゅっと握る。
「持ち帰った虫はどうしたの?」
「一応飼ってた。キュウリの切れ端とかあげて」
「ふうん。最期まで飼ってたの?」
手持ち無沙汰にきみの指を握る手にちからをこめたり、抜いたり、強弱をつける。きみはされるがまま、ふっと目を伏せた。
「一応……でも……、」
「でも?」
きみも握られた指を動かし、逆に僕の指を握る。先ほど僕がしたように、強弱を変えながら握る。
他愛のないじゃれあいは僕をなごませるけれど、きみはひどく遠かった。
こんなに触れあっているのに遠くにいるきみは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……いつの間にか……全滅してて……まあ、多分、普通に寿命だったと思うんだけど……」
ぼんやりと過去を眺めるきみの目が、はたりと瞬く。
指と足、それぞれの接点が穏やかなぬくもりで交わる。
「餌を取り換えようとしたら、皆動かなくなってるのに気がついて……ああ、死んじゃったんだなって……」
「……それで、どうしたの?」
「それで……そう、逃がしたんだよ」
「逃がした?」
もう死んでいたのに?
そう尋ねればきみは頷き、その拍子にぱさりと前髪が頬に落ちた。
「うん。逃がした。家の近くの、遊歩道の草むらに」
ぼんやりとしていた表情がかすかに動き、淡い微笑みを浮かべる。
「どうしていいか、わかんなかったんだよ……急に死んでしまったから」
埋めもしなかった。
なんの情も感じさせない呟きは、たちまち薄明の冷気に溶けていく。
触覚一本すら動かなくなった籠の虫たちを見て立ち竦む幼いきみ。
もしかしたら、それがきみにとってはじめて間近に見た死だったのかもしれない。
きみの指が僕の指を握りこむ。
はっとしてきみの顔に目をやると、遠くを見ていた瞳が僕をまっすぐに射抜いていた。
「もし、朝起きてあなたが死んでいたら、逃がしてしまうかもしれない」
「僕を?」
きみは生真面目に頷く。
「きっと、また、どうしていいかわからない」
絡む指先からきみの拍動が伝わる。
室温は冷たいけれど、触れあう肌は溶けそうなほどにあたたかい。
そのまま溶けて、ひとつになってしまってもいいのだけど、どれほどあたたかくなっても僕らの輪郭がまじりあうことはない。手足を絡めても、思い出を共有しても、僕は僕でしかないし、きみはきみでしかない。
でも、僕ときみがそれぞれに存在するから、僕らは今こうして見つめあっている。
いっせーのせで一緒に死ぬことができないから、きみはいつか来るかもしれない日に不安を覚えている。
「それでもいいよ」
今のきみは、そういうときどうしたらいいか知っている。もう、きみは死を前に成す術もなく立ち竦むだけの子供ではないのだから。
でも、それすら忘れてしまうほどの衝撃であれば。
きみにとって、僕の死がそれだけ衝撃的なことであるならば。
「きみの好きにしていいよ」
僕は道端の草むらに捨てられたとしても、きみを怒ったり恨んだりしない。
空いていた手で、頬に落ちた細い髪をそっと払う。
透きとおった朝の光を受けて、きみの睫毛の先が震えた。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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