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【小説】夜の終わりを告げるもの

 あの子の寝台はやわらかくて、あたたかくて、気持ちのよいものでできている。

 真っ白で清潔なそれらは、いつだってふかふかで何だかいい匂いがする。
 春の穏やかな陽光の匂いの日もあれば、色とりどりの花が咲き乱れる丘の匂い、涼やかな蒼い夜気の森閑とした匂いの日もあった。
 今日はどうだろう。すん、と鼻を鳴らして空気を吸いこむ。
 鼻腔に、気道に、肺に流れ満ちる、まったりと甘い乳の香。
 きっと、やさしい夢をみているに違いない。

 綿雲色のこんもりとした山に、ゆっくりと近づく。
 まるで繭のようだった。身を守るにはやわすぎる繭のなかで、あの子はしずかに夢をみている。
 それを破るのは罪悪感があるけれど、夢はいつか醒めるものだ。いつだって夜は終わり、朝が来る。

 あの子の夜の終わりを告げるのはわたしの仕事。
 わたしにだけゆるされた、日に一度の大仕事なのだ。

 寝台の真横に立ち、転がり落ちてしまった枕を拾う。
 指先が沈んでしまうくらいにやわらかな枕。
 あの子の小さな頭を受けとめる大事なお役目は、ほかの枕が果たしてくれている。
 一個くらい落ちたところで、まだ枕は大小さまざまにあるのだ。

 哀れな枕を小脇にして、繭へと向きなおる。
 あの子の姿はたっぷりのふわふわに埋もれてしまって見えない。
 息苦しくはないのかな、と思わないでもないが、あの子はやわらかなものに包まれるのが好きなのだ。

 実際にくちに出すことはないけれど、あの子はいつだって平穏と安心を求めている。わたしも、あの子にはやさしく、穏やかなぬくもりだけがあればいいと思う。
 それが難しいことであるのを、わたしも、あの子も知っているのだけれど。
 だからこそ、こうして一時でも、擬似的に味わうことができればと思う。
 とはいえ、今は起きてもらわなくてはならない。

「おはよう、朝が来たよ」

 起きて、と声をかける。
 つとめて和やかな調子に、あの子が好きだと言ってくれるこの声で。

 もちろん、これくらいであの子が起きるわけはない。
 わたしの声の大半はそのふうわりとした白にさえぎられ、あの子の夢までは届かないのだ。

「ねえ、朝だよ。起きて」

 ああ、早くその澄んだ瞳でわたしを見て。その鈴を転がすような声でわたしの名前を呼んで。蜂蜜のように甘く蕩けた笑顔を向けておくれ。

 幾重にもかさなった手触りのよい布を剥いでいく。大切な贈り物を開けるときのように、丁寧な手つきで一枚ずつ剥ぐ。

「ほら、朝が来たんだよ」

 まだ積み重なり、絡まりあう白がもぞりと動いた。

 ふふ、と小さく笑みがこぼれる。
 だって、もうすぐあの子と会えるから。

 いつもこの瞬間は嬉しくて、そしてちょっとだけ緊張する。
 どきどきと、からだの真ん中で心臓が鼓動している。大げさで、忙しなくって、わかりやすい。

「ねえ、起きて。顔を見せて」

 また、もぞりと揺れる。

 見守っていると、白の隙間からにょっきりと腕が出てきた。
 華奢で滑らかな肌をした腕だ。

 乳の甘い匂いまとった腕は、何かを探すように緩慢な動きで敷き布のうえを滑る。
 さらさらとした布地に波紋のようなしわを描いたかと思うと、手首から先が寝台の端から飛び出した。
 そのまま力尽き、白皙の手がくたりとしたを向く。
 すらりと伸びた腕に青い影が落ち、磨かれた貝のような爪がのった指先はぴくりとも動かなくなってしまった。

「寝坊助さんだね」

 脱力した手をそっと握る。
 しわも傷もなく、まるで作り物めいた美しさ。
 しかし、触れるとあたたかい。寝起きの蕩けた体温は、平常時よりも少しだけ高いのだった。

「朝が来たんだよ」

 もう何度目かもわからない呼びかけをしながら、あの子の手を握るちからに強弱をつける。
 ほら、起きて、と手からも語りかける。
 わずかに差があったわたしたちの手の熱は、どんどん近くなっていく。

 そうやって体温がすっかり平等になった頃、ぴくり、と握った手が動いた。
 細い指がふるりと小さく震え、たしかめるようにわたしに触る。
 張りのある指の腹がゆるゆると手の輪郭をなぞっていき、くすぐったさに頬が緩んだ。

 やがて満足したのか、あの子の手が、きゅっとわたしの手を握り返す。

「ああ、やっと目が覚めたね」

 赤子のような無垢な反応。もしかしたら、白い布のしたのあの子は今、目覚めの瞬きをしているのかもしれない。

 もう、あの子の夜は終わる。やわらかな繭は破かれ、やさしく、よい匂いにくるまれた夜は終わりを迎え、代わりに朝がやってくる。
 わたしがあの子に夜の終わりと朝のはじまりを告げるのだ。
 そうしてまた、賑々しく刺激的で、わたしたちの愛する平穏からは程遠い一日がはじまるのだ。

 そのはじまりが、せめてあの子にとって心地の良いものであればと願う。

「おはよう。わたしの可愛い――」

 返事のつもりなのか、またきゅっと手を握られる。

 あどけないその加減にわたしの胸はもういっぱいになってしまって、目頭にほんのりと熱が灯った。
 溜め息になってこぼれかけたものを拾って、そっとしまう。どれほどささやかであっても、この白妙の甘露を取りこぼしたくなどなかった。手放したりなど、するものか。

 わたしもまた手にきゅう、と力をこめながら、これから顔を出すあの子のために微笑んだ。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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