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【小説】明日には忘れてしまう花の名前

「これはタンポポ。これはスミレ」
「あの大きな白い花は」
「あれはハナミズキ」

 指で示して尋ねると、彼はすぐに花の名を答えてくれた。

「あっちの小さくて青い花は」
「オオイヌノフグリだね」

 彼が答えるたび、ただの色彩だった花は輪郭を得て僕のなかで意味をもつ。
 黄色はタンポポ。
 紫色はスミレ。
 白色はハナミズキ。
 青色はオオイヌノフグリ。

「あの黄色いのはタンポポ」
「惜しい。あれはヤマブキソウだね」
「じゃあ、あっちの黄色がタンポポ」
「残念。あれはキンセンカだよ」

 黄色い花は全部タンポポに見えた。
 昨日教えてもらった花の名前がもうわからない。彼に正解を教えてもらって、そういえばそんな名前だったような気がしてくる。
 僕は近くに咲く花へと視線をやった。まっすぐに立つ花だった。

「これは……タンポポ、じゃない」
「うん、そうだよ」
「……ヤマブキソウ」
「ううん、あれはチューリップだね」

 彼は黄色くて、つるりとした花弁を指差した。それから、その指先を隣の赤い花へと移した。

「あれもチューリップだよ」

 彼の指は次々と色の違う花を差していく。

「あれも、あれも、あれも全部チューリップなんだ」

 赤、白、黄。ピンクにオレンジ。
 色は違うけれど同じ形をしていることに気づく。あれが、チューリップ。

「明日なったらまた忘れてしまうよ」
「いいよ。そしたらまた教えてあげる」

 彼は僕がどれだけ間違っても咎めることなく、何度でも花の名前を教えてくれた。
 何度教えてもらったところで、僕のなかにその名前が根づくことはない。この庭に咲く花たちとは違い、僕に蒔いた種は芽を出すことなく死んでいく。
 それでも彼は飽きず、僕に花の名前を教える。昨日も、今日も、きっと明日も。

「どうして」

 花の名前ではなかったからだろうか。彼はなかなか答えてくれなかった。
 オオイヌノフグリの青くて小さな花が風に揺れている。

「昔、別れる男には花の名前を教えろといった作家がいるんだよ。その真似っこさ」

 僕は首を傾げた。どうして別れる相手に花の名前を教えることになるのだろう。

「花は毎年咲くでしょう。その花を見て、教えたひとのことを思い出して欲しいってことだよ」

 彼の答えを聞いて、僕は先ほどとは逆の方向に首を傾げた。
 せっかく教えてもらっても、僕はその花の名前を憶えていることができない。タンポポもヤマブキソウもキンセンカもチューリップも、明日になればまた、すべてひとしく黄色い花になってしまう。

「わかっているよ。言ったでしょう。これはただの真似っこなのさ」

 本当は、教える花だってひとつだけなんだと彼は言った。

「でもきみは、沢山の花の名前を訊くでしょう」
「迷惑だった」
「まさか」

 彼は地べたを指差した。まるっこくて小さな白い花が沢山咲いている。

「あれはシロツメクサだよ」
「シロツメクサ」
「そう。ふわふわしていてかわいいね」
「うん。でも明日には忘れてしまう」

 明日見るシロツメクサは僕にとって、名前のない白くてまるい花になる。

「いいんだよ。忘れても。たとえ花の名前を忘れても、こうしてすごした時間がなくなるわけではないからね」

 僕は彼の顔を見た。彼の長い睫毛を見た。彼の通った鼻筋を見た。彼のまろやかな頬を見た。彼の緩く弧を描いた唇を見た。

「僕は何か、大事なものを忘れている気がする」

 沢山の花の名前とともに、何かが土に埋もれたまま、死んでしまっている気がする。
 僕は周りを見渡した。広い庭には沢山の色彩が咲いていて、きっと僕はその名前を知っているはずで、でもまったく思い出せないのだった。
 浅く呼吸をする。こうして忘れたままでいることがひどく不誠実な気がしてならなかった。

「べつに、いいんだよ。忘れてしまっているだけで、ちゃんと残っているのだから」

 彼は優しく、やわらかな声で言った。
 明日には忘れてしまう花の名前。彼のまろやかな頬。彼の通った鼻筋。彼の緩く弧を描いた唇。彼の、寂しそうなひかりを宿した瞳。

「……あの、オレンジ色の花は。細い花弁がいっぱいある花」

 つい、と彼の視線が僕の示した先へと移ろう。腕を精一杯広げたように咲く花を見て、ふっと目を細める。

「あれはね、ガーベラだよ」
「ガーベラ」

 僕は繰り返す。彼から教えてもらった花の名前を。明日には忘れてしまう花の名前を。

<終>

参考:川端康成『化粧の天使達』


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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