【小説】共鳴
学校のプールに、クジラが泳いでいた。
帰ろうと靴を履き替えたところで、独特なにおいが鼻を掠める。
プールのにおいだ、と思った。清潔感と気怠さが混じった、青いにおい。
眞木の中学のプールは校庭の隅にある。だから昇降口にいる眞木のもとまでプールのにおいがするわけがない。
でも、たしかに鼻の奥にまだ残っている。
下駄箱の前に佇んだまましばし考えた眞木は、校門ではなく校庭のほうへと足を進めた。
プールの道路に面したほうは背の高い木とブロック塀、校内に面したほうは金網のフェンスに覆われている。
革靴を履いた足を金網の穴に引っ掛け、器用によじ登る。がしゃがしゃと無粋な音が響いたが、不思議とひとの気配はどこにもなかった。
危うげなく降り立ったのは緑の床。目の前には青々と揺蕩うプール。
プールの壁は目も覚めるような爽やかな青に塗装されていて、水そのものが青いわけではない。そうわかっていても、青い水が満ちているように見える。
眞木はプールへと近づいた。むっと、あのにおいが強くかおる。
覗きこんだ見慣れた青。しかし、それを遮るように巨大な影があった。
何度か瞬きをする。よくよく観察すると、それはクジラの形をしていた。一般的にクジラといわれたら想像するような、濃い灰色の姿をしている。
学校の二十五メートルしかないプールではさぞかし狭いだろう。しかし、クジラは微塵もそんなことは感じさせない、ゆったりと荘厳な気配をまとい泳いでいた。
じっと見つめているとクジラが鳴きはじめた。それは絃を弾いて響かせているようでもあり、獣が甘い歌声を奏でているようでもあった。
言葉にするのが難しい音が絡みあい、眞木を青い世界へ誘う。音が重なりあい、眞木が揺らぐ。
クジラは呼んでいた。きっと、誰でもよかった。この狭く、抜けるように青い水中で、一緒にどこまでも泳いでくれる誰かを求めていた。
眞木は革靴と白いソックスを脱ぎ、制服のスラックスを捲った。プールサイドに腰かけ、あらわになった素足を水に浸ける。
冷え冷えとした色のわりに、肌にあたる温度はやわらかい。日に焼けていない白い足の輪郭がゆらゆらと微睡む。
鼓膜に、脳に、水に触れた皮膚に、クジラの声が響く。楽しそうに、寂しそうに、眞木をプールの底から呼んでいる。
ゆっくりと、足を沈める。折り曲げたスラックスにじわりと水が染みる。
低音と高音が溶けあった声が嬉しそうに色づく。クジラが待っている。塩素のにおい漂う水の底で待っている。
かしゃん、と背後から金網の揺れる音がした。次いで、「眞木」と名前を呼ぶ声。
反射的に振り返ると、クラスメイトがフェンスに張りついていた。
「何してんだよ、眞木」
眞木は首を傾げた。
「寒くねえの」
彼にそう問われた瞬間、ふるりと寒気が駆け抜ける。
気がつけば、眞木はプールの中に立っていた。胸もとまで水が迫っている。
「寒い」
思わずそうこぼすと、クラスメイトは呆れたようすで顔をしかめる。
「そりゃそうだろ。早くあがってこいよ。先生に見つかる前に」
「うん」
言われるがままに水からあがった。びたびたと冷たい水が緑色の床を濃く彩る。
濡れたスラックスが足に張りついているのを無理やりおろす。さすがに靴下を履く気分になれず、諦めて素足を革靴につっこんだ。
侵入したときよりぎこちなくフェンスを乗り越える。クラスメイトは訝しげな顔をして眞木が戻ってくるのを見ていた。革靴の底が無事地面に着地すると、呆れたように溜め息をつく。
「先に帰ってたかと思った」
小刻みに震える声で眞木がそう言うと、クラスメイトは「馬鹿」と返した。
「それは俺の台詞だよ」
クラスメイトは眞木がフェンスを登るときに置いていった荷物を拾うと、本来の持ち主に押しつけた。眞木は濡れた手でそれらを受け取った。それからひとつ、大きなくしゃみをした。
「寒い」
「そりゃそうだ。ほんとに馬鹿だな。着替えはあるのか」
「ない……待って、ジャージがあるわ。でもタオルがない」
「諦めてワイシャツで拭けば」
つれない態度であったが、クラスメイトの足は校舎へと向かっていた。プールのわきに建つ更衣室は鍵がかかってはいれないのだ。
さっさと歩いていくクラスメイトを追いかけようとした眞木は、ふと足をとめた。そして、背後を仰ぎ見る。
視線の先、灰色の鼻づらが水面から覗く。
あ、と思う間もなく巨体が宙へ飛びあがった。
あの狭い枠から弾かれたようにぐんと伸び、きらきらと雫が舞う。
眞木が見つめるように、クジラの大きな目もまた眞木を見ていた。見ていたが、そこに感情はなかった。ただ黒々とした濡れた宇宙があるだけだった。
「眞木」
十歩先を行くクラスメイトの声。寒さに項を撫でられたはずみでくしゃみをひとつ。
「馬鹿。まじで風邪ひくぞ」
「……うん」
去り際にもう一度プールのほうを盗み見たが、クジラなどいなかった。徒然といつもの景色が広がっている。
ただ、眞木の歩いたあとには青を失った水が点々と落ちているのであった。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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