【小説】春に渡る、冬を待つ
カーテンを透かした朝日が白く注ぐ。
山吹は重たい瞼を瞬かせ、息を吸った。
肺に満ちる空気はまだひんやりとしているがやわらかく、身が震えるほどではない。
ゆっくりと、心地よく目が覚めていく。
少し前までは目覚めても容赦のない冷気に勝てず、いつまでも布団から出られなかったというのに。
そんなふうに小さく感動しながらベッドをおりたのだが、素足を受けとめたフローリングはひやりと冷たくて思わず顔をしかめる。それから、ああまだ冬はいるのだと安堵した。
寒いのは苦手だが、冬という季節は好きだった。
清廉な朝の光に目を細めつつもカーテンを開ける。眼前に広がる景色は眩く、生き物の気配を濃く感じた。
冬の間は凍てつく白に埋もれていたものたちが顔を見せはじめたのだ。じきに緑が萌え、小鳥が飛び交い、春を歌うだろう。
「おはようさん」
顔を洗いリビングへと向かうと、同居人が目敏く反応する。寝間着のままの山吹とは違い、すでに身支度を整えて朝食の準備をしていた。
フライパンでぱちぱちと音を立てているのは目玉焼き、オーブントースターのなかでじりじりと焼かれているのは厚切りの食パンだ。
「今日はトーストか」
「先に言うことがあるだろう」
「ああ。おはよう、露草」
朝の挨拶をすると、露草は嬉しそうに破顔した。
「おはよう、山吹。もうできるから、あんたは飲み物でも用意してくれ」
「わかった。牛乳とお茶、どっちがいい」
「うーん、今日は牛乳の気分だな。冷たいやつ」
食器棚からグラスを出し、リクエストされた牛乳を注ぐ。それから少し考えた山吹は、自分のグラスにも同じものを注いだ。
「さあ、食べよう」
テーブルにはカリカリに焼いた分厚いトーストと目玉焼きが行儀よく並び、彩りを添えるレタスとミニトマトが朝日に照らされてキラキラとひかっている。
いただきます、と声をそろえ、山吹は醤油を、露草は塩胡椒を目玉焼きにかけた。厚みのあるトーストを直接齧ろうとするとパンもたまごの黄身もこぼしてしまうので、大人しくナイフとフォークを使う。
「露草がいると朝ご飯が華やかになっていいな」
「あんたひとりだと毎日プレーンのコーンフレークだけだものな」
「あれは手早くてうまいから」
「そこは否定しないが、よく飽きないよなあ。せっかく朝に余裕のある生活をしてるんだから、ちょっとくらい手間をかけてみればいいのに」
野菜やフルーツを添えるだけでも違うぞ、と露草がフォークをトマトにぷつりと突き刺す。
「そうなんだけど、なあ」
家には寝るためだけに帰っていた頃を思い出して山吹は苦笑した。長年の習慣とは変えがたいものなのである。
「そうだ、山吹。今日は車を借りたいんだけど」
「ああ、どうぞ」
「ありがとう。何か買ってくるものはあるか。米とか灯油とか」
「どっちも間に合っているなあ」
いよいよ春めいてきた今、灯油ストーブに頼ることも減るだろう。
「そうかあ。あとは……洗剤とか」
「洗剤も買い置きがまだあるな……それに、春になったら冬ほど減らなくなるから」
こんなふうにふたりで他愛のない会話をしながら取る食事も、あと何回できるのか。
「……そんな顔するなよ」
「露草が言うのか、それを」
春は別れの季節だ。
放浪癖のある露草は、冬の間だけ山吹のもとですごす。そしてあたたかくなると旅に出る。
まるで渡り鳥のように、冬の間だけ山吹のもとで羽を休め、あたたかくなると飛び立つのだ。
「今日だって、旅支度のための買い出しなんだろう」
露草は何も言わず、ただ眉をさげて微笑んだ。
それだけでもう十分であった。
ひとくち分残ったトーストで皿の黄身をぬぐい、ぱくりとくちに放る。ゆっくりと咀嚼し、飲みこみ、ふうと息をつく。
そして、眉を八の字にしたまま手をとめている露草へと視線を向けた。
「別に、責めているわけじゃないんだ」
すべてに行き詰まった山吹が、人生を終わらせようとしたのはほんの数年前のことになる。
あのときは、死ぬことよりも生きることのほうがつらかった。何もかもが山吹にとって恐怖であり、苦しみであり、そうしたものすべてから逃げたかった。逃げるためには死ぬしかないと思っていた。とにかく、一刻も早く楽になりたかったのだ。
結局死に損ねた山吹が見たのは露草の静かな泣き顔だった。
無機質で真っ白な壁を背に、露草は泣いていた。いっそ責めたり怒ったりしてくれたほうがいいと思えるくらい、寥々とした涙であった。
だが、泣くだけ泣いたあとの露草の行動は早く、気がつけば山吹はこの町で暮らすことになっていた。
「この町は居心地がいい。時間の流れがゆっくりとしていて、町のひとたちも穏やかだ」
季節の移り変わりがゆったりとした町だ。冬が長く、じわじわと染みいるように春がやってくる。
「冬の間、こうして露草が一緒にすごしてくれるのも嬉しい」
露草というひとは、本来ひとところに留まることが苦手な気性で、昔からあちこちをふらふらと漂っていた。とくに学校を卒業してからはいよいよ縛るものがなくなったため、気ままな放浪生活を送っている。
そんな露草が冬という決して短くはない期間を山吹のもとですごすのは、もちろん山吹のためにであった。
寒くて無彩色の冬がくると、山吹は昔のことを思い出す。とうに塞がったはずの傷がしくしくと痛み、遠ざけたかつての感情が戻ってくる。
それを聴いた露草は、毎年雪で閉ざされる前に山吹のもとへ訪れるようになった。
雪に埋もれた町で、寄り添うようにふたりで暮らす。
やがて雪が解け、昼が長くなり、桜が満開になると露草は再び旅に出る。
もう何年も、ふたりはそうやって暮らしていた。
「昔よりも冬が好きになった気がする。きっと、露草のおかげだ」
「あらためて言葉にされると照れくさいな」
そう言いながら、露草は満更でもなさそうに笑みを深くした。
「たまにはちゃんと言葉にして伝えなくては……何だか遺言みたいだな」
おや、と山吹が首を傾げ、露草はきゅっと唇を尖らせる。
「山吹がそんなこと言うと笑いづらいな。ジョークのつもりならちょっとセンスがよくないと思う」
「すまん、そこまで深く考えてなかった」
まったくあんたは、とこぼしながら露草が牛乳を飲み干した。
おろされたグラスの底が、コツと天板を打つ。
「また冬が近くなったら戻ってくるから。それまでちゃんと、待っててくれよ」
「ああ、もちろん」
冬になったら露草が訪れる。
大事な友人を迎えるため、山吹はここにいなければならない。
それは義務でないし、明確に取り決めたわけでもなかった。
露草もそうだ。
次にここが雪で閉ざされたとき、露草が隣にいるとはかぎらない。
本人たちがそれぞれそうしたいから続いている。そんな淡い約束だった。
「そうだ、山吹。せっかくだしドライブにでも行かないか。こんなに天気がいいんだから、どっかに早咲きの花があるかもしれない」
「予定がどうだったかな……」
「あんた、一昨日山場を越えたって言ってたじゃないか。覚えてるんだからな」
出掛けるついでに外で食事をしよう。東のカフェが期間限定メニューをはじめたんだってさ。
そう露草が楽しそうに話すから、山吹もうん、と頷いた。
「善は急げ、だ。ちゃっちゃと準備しちゃおう」
からになった食器を片付けはじめた露草に急かされ、山吹も椅子をずらして立ちあがった。
春はあたたかくて、鮮やかで、ほんの少しだけ寂しい。賑やかな友人がいないから。
でも、冬は必ずやってくる。だから山吹はちゃんと生きていようと思う。また、大事な渡り鳥を出迎えるために。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
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