【小説】忠犬の沈黙
広い広い部屋の隅でそのひとは独り、正座していた。涼やかな横顔に隙はなく、よく磨がれた刀身のような鋭さを宿している。
日に焼けた畳と線香の甘くけぶった匂いが渦巻いていた。開け放たれた窓から差しこむ黄色いひかりは場違いなほどに眩しい。中央にはふたの閉められた白木の棺。白く簡素な長方形の前で、ひとびとは入れ代わり立ち代わり膝をついて最期の挨拶を済ませる。
彼はそのようすを、いや、棺を見つめていた。
朝には丁寧に整えられていた髪は時間とともに崩れていき、今は額に落ちて目許に陰を落としている。しかし、前髪から覗く視線も、微動だにしない姿勢も張り詰めたようにまっすぐで、薄い唇すら真一文字に結ばれてた。
わたしと彼の間を沢山のひとが行き交う。しかし、誰ひとりとして彼に気を留める者はいなかった。ひとびとのざわめきは彼を素通りし、ひとびともまた、彼の存在を取り落とす。
この部屋にいるものたち、すべてが長く黒い衣をまとっていた。難しい顔をした大人も、何も知らない子供も、そしてわたしも、静謐な黒を着ている。彼も例外ではなく、真新しい漆黒に身を包んでいる。
月のない夜の闇を煮詰めて染めた色の礼装は皆、揃いのものだった。首からうえと、手以外のすべてを平坦な黒で包んだ姿は個を朧にする。
しかし、彼だけは違った。どれほど皆と同じものを身につけようが、彼だけは輪郭が明確だった。一切混じることなく、彼という存在は浮いている。
庭で時告げ鳥が鳴いた。思わず向けた視線のさき、燎火のように赤い芍薬と淡雪のような白い芍薬が並んで咲いている。
赤い花を灯りに、白い花を道標に、死者の魂は黄泉へと旅立つ。そして空になった躰はほろほろと崩れていき、最期には乾いた骨片が残る。崩れた躰と骨は磨り潰して庭に撒く。芍薬の肥やしになることで、今度は自身が後世の標となるのだ。
だが、この場に故人の躰はなかった。故人は亡骸を遺さず逝ってしまった。棺のなかにあるのは庭から手折った石楠花がひと枝に、朱墨で呪いの書かれた沢山の札。それから、亡骸の代わりに遺された紫紺の羽織紐だけだ。
つい、と庭に向けていた顔を正面へと戻す。彼の顔は能面のようだった。瞬きの少ない眼はこびりついた木炭のように深く沈んでいる。
皆不揃いな列をなし、次から次へと長い衣を引きずりながら部屋を出ていく。
かすかな衣擦れ。誰かが足をおろし、きしり、みしり、と畳が鳴く。
帰りしな、ひそやかに、ささやかに交わされる言の葉たち。
「唐突だったな」
「遺産はどうするのかしら」
「あの屋敷は誰が継ぐの」
「代替わりの儀はいかがしましょうか」
下世話で色褪せた葉がひらり、はらりと落ちる。
彼は顔色ひとつ変えないで、背筋をぴんと伸ばして座っていた。反論のひとつも唱えない。彼にとって、他人の囁きなど耳朶を撫でる風と変わらない。風が吹くくらいで心は傷つかないし、風に文句を言うほど愚かでもなかった。
つねと変わらない、鋭利な澄まし顔。しかし、そのうちは哀しみに満ちている。あの羽織紐の持ち主を喪ってできた穴は、蒼く陰った氷雪で埋まっているのだ。
また時告げ鳥が鳴く。長い鳴き声がふつりと不自然に途絶え、静寂があたりを包む。
広い広い部屋にはわたしたちしか残っていなかった。ふたりの間にあるのはくすんだ甘い匂いと黄みを増していく日のひかりだけ。
凛と座す彼は呼吸をしているかも疑わしいほど不動であった。右胸に秘められた心臓が脈打っているか、確かめたい衝動に駆られる。だが、わたしも動けなかった。まるでピンでとめられた虫みたいに、その場に縫い留められていた。
静けさがじくじくと痛む。声帯が震え、しかし、漏れるのは吐息のみ。
彼に渡すための言の葉をわたしはもっていなかった。
そして彼のほうも、わたしの言の葉を受けとめる耳をもたないのであった。
彼の耳は、声は、心は羽織紐の持ち主のものであった。彼はあの方の犬なのだ。たとえあの方が死者となり、魂だけになったとしても、その魂が黄泉に旅立ったとしても、彼はこの先もあの方だけの犬なのだった。
わたしは犬に選ばれなかった。
ああ、わたしが犬であったなら。せめて、まことの犬であったなら、あたたかな毛皮で彼の哀しみに寄り添えたのに。獣ではないのだから、舌を器用に使い、音に意思をのせねばならない。だが、わたしは伝えるべき言の葉を紡ぐすべをもたない。
思考は無音のまま、円の形を幾度もなぞった。
不意に、虚空を、或いは石楠花のはいった棺を見つめていた彼が首の向きを変える。礼服よりなお昏い色の瞳がわたしを捉えた。
驚きで身を固くしたわたしを横目に、彼は懐に自らの手を忍ばせる。
次に彼の手が出てきたとき、その指先は艶のない乳白色の欠片を摘まんでいた。彼の小指の先ほどの大きさのそれはうっすらと凹凸があるのか表面に陰影を浮かべ、遠目にもざらついた質感なのだと思わせる。
骨だ。
そう思った途端、彼は滑らかな喉を反らし、欠片をくちのなかへと放りこんだ。
かり、こり、とくぐもった音が鼓膜をくすぐる。かり、こり、砕く音。
尖った喉仏が緩慢に上下し、砕いた欠片を嚥下したのだと知らせる。
呆気にとられたままのわたしを、彼の目が再び捉えた。薄い唇の端がわずかにもちあがる。真一文字に引き結ばれていたそれが緩み──
「わん」
犬は、眩しそうに目を細めた。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。
同一世界のお話。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?