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【小説】考える海

 彼は部屋の中央で、大の字になって寝転んでいた。長い手足をのびのびと脱力させ、穏やかな顔つきで目を閉じている。
 これといって足音を忍ばせるようなことはせず、大股で近づいた。

 彼の寝顔に私の影が落ちる。と、彼が目を開いた。
 ばちり、と音が聞こえたような気さえする。それほどに彼はくっきりとした眼差しで、眠りの気配など微塵も感じさせなかった。
 そもそも、眠ってなんかいなかったのかもしれない。

「ああ、いらっしゃい」

 笑みをのせて彼は言った。

 浅縹色の双眸は、浅瀬のような淡い光を放っている。先日会ったときはよく晴れた日の海原みたいな紺碧をしていた。
 私にとって馴染みのある海はいつも鈍色で寒々しい銀の波を立てるものだから、懐かしいとは思わない。でも、眩しいと思う。
 眩しくて、綺麗だ。混じりけのない水の色はうつくしい。

「また随分とくたびれた顔色をしている」

 私は返事のかわりに口角をもちあげてみせた。歪な表情だと、自分でもわかる。
 彼はそんな醜さには触れず、寝転がったまま「おいで」と言った。

 躊躇したのは一瞬だけ。私は今まで何度もそうしてきたように彼の前に跪き、少しだけまた考え、ゆっくりと彼の平らな胸に頭を預けた。
 彼は人間ひとりぶんの重みを受けとめてもびくともしない。高すぎず、低すぎない体温が衣服越しにじんわりと伝わってくる。

 視界が暗くなるのがいやで瞬きを繰り返す。
 その一方で、彼はまた目を瞑ってしまったようだった。

「人間として生きるのは大変だな」

 寄り添うようでいて、まるで他人事のようでもある言い方があんまりで、私は小さく吹き出してしまった。
 笑ったつもりだったけれど、どうしてかぐっと目許が熱くなって、慌てて唇を噛む。
 思わず彼の胸に額を擦りつけたけれど、彼はやはり少しも揺るがないのであった。

 体つきや声音が男のようであるから便宜上『彼』と呼んでいる。が、本人としては『彼』だろうと『彼女』だろうと、自分を示すものとわかれば呼称なんて何でもよいのだ。
 たぶん、『犬』と呼ばれようが『花』と呼ばれようが、それが自分のことであるとわかれば応えるのだろう。
 私と出会った彼は、たまたまこの姿だった。私以外のひとから見れば、また違う姿に映るのかもしれない。

 本当に必要なものなのかわからないけれど彼は呼吸をする。息を吸って、吐いて。そのたびになだらかに胸が上下し、預けている私の頭もその動きをなぞる。
 一定のリズムを刻むそれは、寄せては引いていく波の動きを連想させた。連想させた、というよりは、彼の本来の姿なのだと思う。

 私が考える葦であるならば、彼は考える海であった。

 とはいえ、私は脆弱な人間であるものだから、人間の特権である『考えること』を放棄したくなることがある。まさに今がそうだ。
 海である彼は、そんな私の我がままと弱さを拒むことなく、私より大きな器で受けとめてくれる。それが海というものだからだ。

「もう少しだけ」
「ああ、もちろん」

 彼のお決まりの返事に毎回律儀に気をよくする私は、そっと瞼を閉じた。
 暗くなる視界。彼に触れているところだけがあたたかく、輪郭がある。
 息を吐くと、思ったよりも大きな溜め息となって宙に散った。

 先ほど彼が言ったように、人間として生きるのは大変だと思う。たくさんの人間たちとぶつかりながら、潰されないよう傷つけられないよう、どんどん尖っていく気がする。
 そうやって、身を守るためにできたはずのとんがりで、いつの間にか大切なひとまで傷つけ、そのうえ自分まで傷ついている。

 端的に言って、生きるのが下手なのだ、きっと。

 とげとげになった私は、彼の脈に耳を澄ませる。
 彼の拍動はさざなみだ。彼のあるのかないのか実際のところよくわからない心臓の音に身を任せ、波間に揺蕩う。時々、彼がくちを利いたり、笑ったりすると大きく波立つ。

 手持ち無沙汰になったのか、彼の大きな手が髪を梳く。波に洗われているような心地よい浮遊感。
 眠りのふちに腰かけたような感覚は手放し難く、いつまでも微睡んでいたかった。

 生命は皆、海から生まれたという。
 学術的なところはよく知らないけれど、詩的な雰囲気があって私は結構気にいっている。
 素敵じゃないか。どうしようもないことで争いあってばかりの人間たち皆、等しく海から生まれたなんて。それに、生まれたからには、生を終えたときに戻る場所もまた海のはずだ。

 海がやさしいばかりのところだなんて流石に夢を見すぎているとも思うが、生命が生まれた海であれば、そこはやはりやさしいのではないだろうか。やさしくあってほしい。
 最早願望だったが、今こうしてからだを預けた海がこんなに穏やかであるならば。そう思わずにはいられない。

「早くかえりたい」
「いつでも待ってる」

 だから、ゆっくりかえっておいで。

 そう言うと、彼はまた私の髪を梳いた。瞼の裏側に、ゆらり、波に揺れる毛先の影が差す。
 彼は決して私を拒まない。そして誰に対しても平等で、私を特別扱いなどしない。
 海とはそういうものだから。

「じゃあ、もっと聴かせて。さざなみみたいな拍動を」

 彼が笑い、水面が揺らめく。
 広くあたたかい胸に耳を押しつけ、私は強く目を瞑った。

<終>


最後まで読んでいただきありがとうございました。
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