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【小説】蛇の泪

 轟々と炎が燃えていた。
 地獄の業火は屋敷を囲み、黒々とした煙をあげ、ひとびとの悲鳴が響き渡る。

 お伴の者たちが慌てふためき、転がるように逃げていくなか、女はひとり立っていた。
 嫁入りのためにと用意された華やかな着物も、美しく整えられた髪も、白くやわい頬もちりちりと熱く、煤に染まっていくが、それでも女は動かなかった。

 目の前には彼女を覆うほどに大きな影。
 蒼みを帯びた闇色の鱗は火焰の輝きを弾き、酸漿ほおずきのような赤くおどろおどろしい眼がぎょろりと女を見おろす。

「あんた、ついてきちゃったんだね」

 女がそう言うと、巨大な蛇は鎌首をわずかに傾げた。
 それは頷いているようでもあり、また、まったく話など聴いておらず、ただなんとなく重たい頭をもてあましているだけのようでもあった。
 人間のひとりくらい、まると呑みこめるだろうくちもとから、ちろちろと舌が覗く。

 女はほんの少しばかり容姿に優れているほかには目立った取り柄のない、ただの村娘であった。
 村の外れにある桜が咲いたら惚れた男との祝言をあげる、誰よりも幸せな、ただの村娘であった。
 夫となる男と慎ましやかで平凡で、ありふれた生活を送るはずだったのだ。

 ささやかな幸福が引き裂かれたのは、桜の蕾がまるまると膨らんできた頃のことであった。

 鷹狩に行く途中に村を通りがかった、とある殿様が彼女を見初めたのだ。
 小さな村に暮らす平民の意思など、権力者の前ではあってないようなものである。
 あれよあれよという間に女は輿入れが決まり、沢山のきらびやかな嫁入り道具とお伴の者を引き連れて殿様のもとへと向かうこととあいなった。

 いっそ暴力的な理不尽に女は泣いたが、男は泣かなかった。握りしめた拳から血が滴るほど憤り、毒虫を喰ったように苦しげに表情を歪め、それでも泣かなかった。
 だから彼女もすぐに泣くのをやめた。
 男のため己も無様に泣くのはやめようと決意するほど、彼女は男を愛していたのだ。

 村の外れの桜が満開になった日、女は村を発った。
 彼女を見送る村人たちのなかに、誰より愛した男の姿はなかった。
 春の日差しはあたたかく、しかし彼女の心は冷え切っていた。
 殿様が手ずから選んでくれた美しい着物も、お伴の優しい気遣いも、女には響かない。
 彼女が最後に見た舞い散る桜は、冷たく降りしきる雪によく似ていた。

 道中は何事もなく、殿様が暮らすという大きな屋敷が見えてきた。
 それは、これまで女が見たことがないほどに立派な建物であったが、彼女が慰められることはない。
 凍てついた心を胸に隠し、彼女は前だけを見据えて歩きつづけた。

 異変が起きたのは、彼女たちが屋敷へと続く門を潜ろうとしたときだった。
 女たちの悲鳴や男たちの怒号に、何か重いものが崩れる音が重なり、気がついたときには屋敷のそこら中に火の手があがっていた。

 尋常でないようすに、女を促し逃げようとしたお伴が絶叫する。
 咄嗟にそちらへ顔を向けた彼女もまた息を呑んだ。

 視線の先にいたのは、狂炎を背負う大蛇であった。

 六尺を超える蛇は、重厚な沈黙でもって女を見つめていた。
 みっしりと並んだ鱗に火の影が躍り、二股にわかれた舌が覗く。
 熱風にのった灰と火の粉が降り注ぐなか、彼女も蛇の眼を見返した。
 取り囲む火柱のように恐ろしい赤でありながら、凪いだ湖面のような眼だ。

 お伴の者が我先にと逃げ出しても、女の視線は蛇の視線と絡みあったままだった。
 火に炙られ、灰に薄汚れ、女以外誰もいなくなっても、ひたと蛇と見つめあう。
 そうして時間をとめていた彼女はひとつ瞬きすると、ふっと強張っていた表情を緩めた。

「あんた、ついてきちゃったんだね」

 蛇は鎌首をわずかに傾げるばかりで答えず、女は両目を細めた。

「殿様はどうしたの。まさか、食べてしまったのかい」

 熱さと立ちこめた焦げた臭いで血の気配を感じることはできなかったが、女にとっては最早どうでもいいことだった。
 凍てついていた胸の内側に陽光が差す。

「馬鹿だね、あんた。そんな姿になっちゃって」

 やはり蛇は黙ったまま、静かに女を目する。
 すると女は困ったように笑って、その細腕を広げた。

「わたしを抱きしめてくれる腕がないじゃないの」

 熟れた酸漿のような眼から、ぽろりと雫が零れた。

 女が煤まみれの薄い手で鱗に触れると、雫はよりいっそう零れて彼女を濡らした。
 滑らかな鱗はぬらぬらと火の影を映しながらもひんやりと冷たく、女は火照った頬をおしつける。蛇はぽろぽろと大粒の雫を幾つも零しながら彼女に顔を近づけ、その頬を長い舌で器用に撫でた。女はくすぐったそうに小さく声を震わせると、太い胴体を抱きしめる。
 すっかりぬくもりを取り戻した心が、女の眼の縁からほろほろと溢れた。

 猛々しい火は天を舐め、どこかで大きなものが崩れる音が響くが、ふたりが臆することはない。
 ふたりがこの世で恐れることはただひとつ、ふたりの仲が引き裂かれることだけなのだから。

 灰と火の粉が降りしきるなか、女を背にのせた蛇はずるりと長い身をくねらせ、誰に見送られるでもなく屋敷を背にした。
 ひらひらと舞い落ちる熱い灰は桜の花びらのようであった。

<終>

最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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