【小説】猫舌のまかない
「ただいまぁ」
そう言うと、下のほうから「おかえりなさいませ」と返事が聞こえた。
視線を下げれば、茶トラの猫が尾をゆるゆると振っている。
「今日も一日おつかれさまでした」
「ありがとう」
「お夕飯できていますからね。きちんと手洗いうがいをして来てください」
「はい、はい」
とてとてと台所へと戻る猫のしましま尻尾を見送り、わたしは洗面台へと向かう。言われたとおり、しっかりと手を洗い、うがいをして、リビングへと行くとテーブルには確かに夕飯が並べられていた。
ご飯に冷や汁、野菜を添えたサラダチキン。家事全般を器用にこなす茶トラだが、何せ猫舌なものだから、食事だけは冷えている。調理している間に火にかけられた筈のものも食卓に出る頃には冷めているのだ。
今はまだ夏の名残で暑いからいいけれど、本格的に寒くなってきたらどうしようか。でも、家に帰ると夕飯が準備されているというのはかなり心地が良いもので、きっと私は文句を言いながら冷めたそれを食すのだと思う。それか、自分であたためるか。いくら何でも、それくらいならできる。
ひとりと一匹、向かいあって、声をそろえて、いただきます。
茶トラはあのまるっこい手――いや前足か――で、器用に箸を使う。時々、三角形の耳がぴくりと動いて可愛らしい。くちを開くと平気で母親みたいなことを言うのだけど。
この茶トラ猫と出会ったのはまだ夏の盛りの頃のことだった。
茹だるような熱帯夜、真っ黒な空には細い月が浮かんでいた。
少しでも早く帰りたくて暗がりのなかを忙しなく動かしていた足が何か、やわらかいものを蹴飛ばす。それは「ンギャッ」と悲鳴をあげると金色に光る目でわたしを睨んだ。街灯に照らされた毛皮はぶわりと逆立っている。
「なんてことするんですか! いきなり蹴飛ばすだなんて」
「ごめん、暗くて気がつかなかったんだ」
これだから人間は、とそれはぶちぶち呟いた。
オレンジの縞模様が刻まれた尾が、苛立たしげに揺れる。
「悪気はなかったんだよ。お詫びに、きみに一夜の宿を提供してあげようじゃないの」
ふわふわの猫は愛らしいけれど、暑くないのだろうか。わたしは立っているだけでも暑い。早く帰りたい。
それに、なんとなくだけど、猫に恨まれるのは不味い気がする。
「本当ですか? それはとても助かります。もう、暑くて暑くて……」
やはり猫も暑いらしい。ヒゲをひくひくと揺らしながら、茶トラは先ほどの怒りもどこへやら。意気揚々とわたしのあとをついてきた。
遠隔操作で冷房をいれた家のなかは涼しく、わたしと猫はそろって安堵の息を吐く。
とりあえず、猫も食べられそうなものをとツナ缶を出してみる。自分の前には朝に作り置きしておいた味噌汁と白米と、帰る途中に買った惣菜を並べる。猫がちょっと羨ましそうに私の前のご飯を見ていた。
「猫はしょっぱいものとか、葱とか良くないでしょ」
「そうですね、葱は駄目です。でも味噌汁は好きです」
贅沢な舌だ。仕様がないから味噌汁をよそってやる。
葱を入れておけば良かった。
しばらくの間、互いに無言で食べる。
正直、誰かとこんなふうにゆっくりと食事をともにすることが久しぶりで、何を話せばいいのかなんてわからないのだ。茶トラのほうも食べることに一生懸命なようだった。猫舌のせいかなかなか食べる速さがあがらず、わたしのほうが先に食べ終わる。
それからしばらくして、茶トラも綺麗に平らげると「ごちそうさまでした」と手をあわせた。
誰に教わったのかは知らないが、随分と礼儀正しい猫である。
「お皿洗いはお任せください」
「いや、かまわないよ。猫って水が苦手でしょう?」
「それは個猫差がありますよ。熱いものは苦手ですが、水は得意なのです」
そう言うと茶トラは本当に私の食器まで洗うのであった。
その間にわたしは風呂を沸かし、寝床を用意する。はたして猫は風呂にはいるのか。しかし、先ほども水は得意と言っていたし、といつもより温めの湯を張ると、茶トラは喜んで風呂へとはいった。
「ひとまずここで寝てね」
リビングの一角を猫のために整え、青いタオルケットを貸してやる。どう考えてもやつは立派な毛皮を持っているから必要ないとは思うのだが、一応お客様への礼儀と皿洗いの礼をこめてのことである。
「ありがとうございます」
茶トラは嬉しそうにタオルケットを受けとると、いそいそと即席の寝床でまるくなった。
次の日の朝、私は空腹を感じて目を覚ました。なんでこんなに腹が減っているのだろうかと思ったが、台所から香る朝食の匂いのせいだと気づく。
ずるりと布団から抜け出せば、昨日拾った茶トラが丁度皿を並べているところだった。狭い住居だ。茶トラはすぐに私が起き出したことに気がつく。
「おはようございます。今日もいい朝ですね」
「おはよう…」
テーブルに並んだ白米、味噌汁に卵焼き。茶トラが用意したメニューはどれも私好みの味だった。冷めてはいたが。
仕事があるので家を出ようとすれば、律儀に玄関までやってきた茶トラが、いってらっしゃいませ、と尾を振る。いくらかの残業をして帰ってくれば、当たり前のような顔をして、おかえりなさいませと出迎えてくれる。そして労う言葉をかけ、夕飯のメニューを教えてくれるのであった。
一宿一飯を呈しただけだったはず茶トラは、いつの間にかすっかり居ついてしまったのである。
「猫は三年の恩を三日で忘れるなんて、とんでもない! 吠えて尾を振るしか能がない犬より余程役に立ちますよ」
茶トラは犬派が聞けばヒゲを切られそうなことを言いながら、ほぐしたサラダチキンを箸で摘まむ。こいつ、私が大の犬好きであったらどうするつもりだったのか。いや、でも、あのピンクのつやつやした肉球の愛らしさに免じて許してしまったかもしれない。可愛いは正義なので。
一向に帰る気配がない茶トラ。食事も洗濯も掃除もやってくれる、器用で可愛らしい猫。お喋りだけど、実はいまだに私相手に喉を鳴らしてくれない猫よ。
「だいぶ涼しくなってきましたね」
「そうだね。今年の冬も寒いらしいよ」
「毎年のこととはいえ、ああも寒いと参ってしまいます。公園は雨風をしのげても寒さまでは防げないのですから」
「たしかに、そうだろうね」
「でも今年はあたたかく過ごせそうです」
ひくりとヒゲを揺らし、茶トラは笑ってみせた。
「ああ……そうね」
この猫、当分の間はここに居座るつもりらしい。
生姜が効いた冷や汁をすすり、サラダにはいっているミニトマトを摘まむ。咥内でぷちりと潰れた赤が喉を滑り落ち、ひやりと胃を冷やす。やはり、茶トラには早めにあたたかい食べ物の素晴らしさを布教しなければならない。
それから、もっと厚みのある寝具を用意してやろうと思う。いつまでもぺらぺらの青いタオルケットだけでは気の毒だ。
「明日は休みだから、一緒に買い物にでも行こうか」
茶トラは一瞬その金色の目をまんまるにしたかと思うと、ついっと弓なりにしならせた。
それはあの日浮かんでいた細い細い月のようであった。
<終>
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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