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【小説】恋々と無駄花

 姉が死んでから半年が経とうとしている。つまり、死んだ姉の夫と私、ふたりきりの生活も半年を迎えようとしているということだ。
 もとはといえば、ストーカー被害にあった私が姉夫婦のもとへ逃げこんだのがはじまりだった。大学構内でのつきまといが次第に範囲を広げ、とうとう家まで特定されてしまったのだ。
 ほとぼりも冷め、そろそろ自立しようと計画を立てていたところで姉が死に、そのままなし崩しに義兄との暮らしを続けている。

 朝食は姉が生きていた頃と変わらずトーストとサラダに、オレンジジュース。私だけそこにヨーグルトを追加する。
 乳製品が苦手な義兄は半熟の目玉焼きをのせたトーストを器用に食んだ。私は目玉焼きには醤油を、義兄は塩コショウをかける。姉はその日の気分で醤油と塩コショウを使い分けていた。

 テレビで流れる天気予報が、今日は折りたたみ傘をもっていくように告げる。

「雨だそうですよ」

 私がそう伝えると、義兄の視線が食べかけのトーストからテレビ画面へと移動する。

「ちょうど帰る頃に降られそうだ」

 困ったな、とわずかに首を傾げた義兄の胸元で真っ青な花が揺れる。大きな花弁の見事な花だ。

 恋をすると、胸元に花が咲く。恋心を栄養とする花はひとによってさまざまな色と形で咲き、同じ人間が咲かせるものでも想う相手が変われば花も変わる。

 私の胸元には鮮やかな赤が咲いていた。もう何年も前からの付き合いになる小ぶりの花々は、姉が咲かせた花と同じ色をしている。姉の花は目が覚めるような赤で、義兄に負けず劣らず大輪の華やかなものだった。夫婦の花をまとめて花束にすれば、さぞかし美しく豪勢なものになっただろう。

 そういえば、ストーカーが咲かせた花は見目だけは立派なものだった。しかし、あれが私への歪んだ恋心を糧に咲いていたのだと思うとひどくグロテスクなものに成り果てる。
 どれだけ醜かろうと、身勝手なものであろうと、それが恋情であれば等しく美しく花開くのだ。
 私の花はどうだろう。見慣れた真っ赤な小花たちは揺れるばかりで答えはしない。

 七時半、義兄とともに家を出る。私のバイトのシフトによっては、出勤する義兄と出るタイミングがかぶるのだった。
 五階建てのマンションの廊下には同じデザインの扉がずらりと整列していて、どこまでもそれが続いているような錯覚を覚える。
 空には鈍色の雲が広がり、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。

「あ、おはようございます」

 ちょうど鍵をかけたところで、隣の住人が出てきた。片手にゴミ袋を携えた中年の女性だ。彼女は私たちふたりの姿をさっと視線で舐めると愛想笑いを浮かべ、形だけの会釈をしてそそくさとエレベーターの前を陣取った。
 私たちはどちらからともなく階段を降りる。
 以前であれば、天気や近所の噂話などのひとつでもしただろう。お喋りなあのひとはきっと、今はほかの住人と私たちの根も葉もない話を楽しんでいるはずだ。

 周りからすれば、私たちの暮らしは不誠実に見えるかもしれない。しかし、私たちは一部の人間が思うような男女の関係はないのだ。
 夫婦の寝室のインテリアは、姉が生きていた頃と少しも変わっていない。姉の使っていた食器、衣服などはすべてそのままにしてあるし、姉しか読まない雑誌の定期購読は解約せずにいる。

 マンションのエントランスの自動ドアを出て、私はバス停を目指して右へ、義兄は駅を目指して左へと分かれる。

「行ってらっしゃい」

 義兄が先にそう言って、私が歩き出すのを待つ。

「行ってきます」

 私はにこやかに挨拶を返し、バス停へと向かう。
 くるりと方向転換する瞬間、義兄の胸元の花へと目が行く。惹きつける深い青。

 恋心を糧とする花は、その恋が失われると枯れてしまう。跡形もなく消えて、新たな恋をすると、それを栄養に違う花が咲くのだ。
 姉に学部の同期だと紹介されたときから、義兄の胸には青い花が咲いていた。義兄の花が枯れたところを、私はまだ見たことがない。そして、自分の花が枯れるところも。

 私の花が咲いたのは中学の頃だった。
 ある休日、友人たちと遊びに行くために化粧をしていた姉が、ふと私を呼び寄せる。

「ほら、ね。これ、可愛いでしょう」

 買ったばかりの甘いピンク色のリップグロスを見せられ、私は首をひねった。ソフトテニス部に所属し、毎日のように身体を動かすことに楽しみを見出していた私には、化粧の可愛さや楽しさがよくわからなかったのだ。

「せっかくだから、つけてあげよっか」

 妹の反応などおかまいなしに、姉は蜂蜜のように光るリップグロスを私の唇へと塗る。よく日に焼けた私の肌に、愛らしいピンクは似合わなかった。変なにおいはするし、べたつくし、落ち着かない。

「あらら、オレンジのほうが似合いそうね」

 楽しそうに笑ったまま、姉はリップグロスを自分の唇にも塗った。インドア派の姉は色白で、淡い色がよく映える。
 私と同じものを塗ったのに、艶めく唇は蜜の滴る果実のような魅力をたたえていた。くるりとカールした睫毛も、はにかんだように染まった頬も、輝く粉をのせた薄い瞼も、すべてが強い引力をもったように私の目を惹きつける。
 するはずのない甘い香りが鼻先を掠めたとき、私の胸元には小さな小さな花が咲いたのだった。

 控えめな大きさのくせに、目に焼きつくような鮮麗な赤に色づく私の花。実にならず、枯れもしない永遠の花。
 憧れや親しみを恋と履き違えたかもしれない。だけど、私の花は咲いてしまった。辞書の定義と噛みあわなくとも、私にとっての恋とはこれなのだ。

 私は義兄の花を見るのがいっとう好きだ。義兄が姉に恋して咲かせた青い花が。
 そして義兄もまた、私の赤い花を見るのが好きであった。

 私たちは焦がれたひとのための花を眺めながら暮らしている。捧げる相手を失った、哀れな無駄花を眺めながら。
 どちらかの花が枯れるまで、この生活は続くのだ。

<終>

最後まで読んでいただきありがとうございました。
小説は以下でも公開しておりますのでよかったらぜひ。


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