福島で「暮らす」ということ〜移住5年目、ようやく言葉にできました
「福島県」と聞いて、どんなイメージを持ちますか?
私は、特に何もなかったんです。「何もないところ」ではなくて、イメージがわくようなものが何もなかった、あの日までは。
生まれも育ちも、神奈川県横浜市。東日本大震災以前は、神奈川県以外に暮らしたことはなかったし、暮らそうと思ったこともないくらい、「横浜大好きなハマっ子」でした。
でも揺れたんですよね、あの日。私の大好きな横浜も。だからあの日から、東北のことは私にとって他人ごとではなくなりました。
いま私は福島県いわき市に暮らしながら、「いわき経済新聞」をはじめとするWeb媒体で、主に福島県の沿岸部=浜通り地域(以下、浜通り)の情報発信をしています。
(取材する筆者。2018年6月。この時の記事はこちら/撮影:森亮太)
東日本大震災から7年半以上が経ち、横浜で耳にする福島の情報と、私が福島に暮らし、得ている情報とは大きな隔たりがあります。
「福島で仕事をしている」と県外の人に伝えると「偉いね」「すごいね」と言われることがほとんどです。でも、仕事をしてるのです。無料奉仕しているのではありません。
私は福島で、日々さまざまなことを吸収し、充実した毎日を送っています。一言で言ってしまえば、福島の日々を楽しんでいるのです。
そんな充実した福島の情報が、県外に伝わっていないのは、もったいないし悔しい。それを伝えられるのは、福島県内と県外を頻繁に行き来する、私の役目ではないだろうか。
そんな勝手な使命感を持って、いま「福島県浜通り移住ライター」と名乗り情報発信をしている私ですが、ここまでには数年の時間が必要でした。
とにかく現地へ行きたい 縁があって福島へ
東日本大震災が発生した直後から2013年まで、私はボランティアベースで東北に足を運んでいました。自身が暮らす横浜は、震災後2週間くらいで平常に暮らせるようになっていたので、何かできることがあればと、ボランティアバスを利用し、2~3か月に1回くらいのペースで現地に行きました。しかし、ボランティアってとにかくお金がかかるのです。
正規料金よりは安いといえ交通費はそれなりにかかるし、現地に行ったら「経済的に応援しよう」とお土産買ったり、再開した仮設商店で飲み食いしたりしてしまうし、知り合いができたら繰り返し足を運んでしまうし……。
(繰り返し足を運んでいる、大好きな岩手県上閉伊郡大槌町。2012年2月22日/撮影:岩元文)
私は震災を機に、勤めていた会社を辞めていました。それまではずっと接客業だったのですが、震災直後に失職してしまったのです。
東日本大震災直後、覚えている方も多いと思いますが、首都圏は計画停電となりました。勤めていたショッピングモールの営業時間が大幅に短縮されたうえ、「消費より寄付」という自粛モードでお店に来店するお客さんも少なくなり、シフトに入れなくなったのです。その後、震災支援をしていたNPOに声をかけられ、収入は下がりましたが転職しました。
そこからはNPO勤務とアルバイト、フリーランスでイベント運営を請け負う仕事などで生活していましたが、金銭的、仕事の事情で、東北に足を運ぶ機会がどんどん減っていきました。でも、東北のことは気になってしょうがない。なら、仕事にすればいいのではないか。そう思い立ち、2013年10月に震災支援を業務の柱にしている団体の職員になりました。
職員になってからしばらくは、東京事務所で総務の仕事をしていました。2011年から足しげく東北へ通ってはいたものの、実はまだ現地で働く覚悟ができていなかったのです。そのような葛藤を抱えている中で、同じく総務で働く女性たちの言葉が胸に残りました。
「岩手県沿岸部で総務の仕事があって、娘を連れて現地で仕事をしようと思ったんだけど娘に断られちゃったのよね」「現地で働きたいとは思うのだけれど、旦那がいるし、東京で総務をやって、休みにボランティアで行くのが精いっぱいで」
私にはパートナーや子どもはいないし、両親も元気、妹はバリキャリ。なんで、現地に行くのをためらっていたんだろう。そう気づいたとき、職場内で福島県双葉郡の原発被災地支援に欠員が出て、現地派遣の打診がありました。晴れて、2014年9月にいわき市へ移住することになったのです。
(いわき市内で大好きな場所の一つ、田人のMOMOcafe。でも緑深いこの地区の周辺では、いまだに携帯の電波が切れます。2018年5月撮影)
打ちのめされる正義感 地域のことを知る努力を
ようやく現地で活動できる! 意気揚々と移住した私がまず痛感したのは、自分の思い込みの強さと、地方生活に適応するスキルの弱さでした。
首都圏に届く福島の情報と現地で得る情報は、いまでも大きく乖離している。その情報を現地から発信する必要があると思っていたのですが、私が就いた業務ではそういうことは求められていませんでした。
原発被災地の中でも「帰還困難区域」として指定されている地域の復興支援員として派遣された私の業務は、全国各地に避難している町民の方への情報発信。震災から3年が経過していた当時でも、まだ外部へ情報発信する段階ではなかったのです。
また、「現地に行きたい」という思いだけが先行し、地域の情報収集が足りていなかった私は、「支援に来たのにそんなことも知らないの」というような場面に日々遭遇していきます。例えば、地名の読み方や町の歴史的背景、原発事故のこと、避難の状況など。
いまでこそ答えられるし、日々情報をアップデートするようにしていますが、移住してすぐの時は、自分の知識のなさで周囲の人たちへの配慮ができず、迷惑をかけてしまいました。
東京で得たスキルで地方に貢献というのもお門違いのことでした。そもそも、地方より東京の方が優れているという先入観が間違っていました。
地方には地方のやり方がある。一見、東京でやってきたことの方が効率良く感じますが、地方の根強い人間関係、アナログな情報伝達、PC・スマホの普及率、携帯の電波状況など(いわき市内でも、携帯の電波が圏外の地域はいまでもあります)では、東京方式をそのまま生かすことはできません。そんなことも分からなかった私の「東京目線」は、当時の仕事先に「残念な人だな」と映っていたことは想像に難くありません。
また、神奈川県内でしか暮らしたことのなかった私が一番苦労したのは車の運転です。縁石に乗り上げるのは日常茶飯事、高速道路でハンドルを切りすぎてフェンスギリギリまで行き、同乗者に「死ぬかと思った」と言われたり、最終的には雇用先から「車の運転禁止令」を出されたくらいです。
さすがにいまは毎日運転してるのでそんなことはないですが、高速道路の運転は極力避けているし、なるべく知らない道は通らないようにしています。
心を病んでの転職が転機に、情報発信を始める準備を
移住してから1年半、原発被災で避難している町の「復興支援員」という立場で業務を続けました。
私がいま暮らすいわき市には、いまでも約2万人の方が避難しています。ある日突然、故郷を追われてしまった人たちの気持ちを、外から来た人間が理解することは到底無理ですし、寄り添うことで逆に支援する側がダメージを受けてしまうことすらあります。
(JR常磐線 双葉駅はいまも帰還困難区域で、許可がないと立ち入りできません。同僚の一時帰宅に同行させてもらった際に撮影。2014年12月7日)
私は当時、支援員の中で一番最後に現地に派遣されました。現地で聞く、町民の置かれた状況に対して感じる支援員としての無力感、自身の知識の足りなさ、他の支援員に対する引け目や、派遣先の町民への遠慮……。職場や地方生活に慣れることができなかった私は、少しずつ心を病んでいきました。
診断結果は、「適応障害」と「冬季うつ」。でも私に、横浜に帰るという選択肢はありませんでした。だってまだ、福島に来て何も残せていない。このまま帰ったって、福島にいたことが何にもならない。
復興支援員の任期は最大5年です。いまとなってはすっかり忘れていたのですが、福島に来る前の私は、「福島に5年もいれば、それは神奈川に戻った時のキャリアになる」と考えていました。それが1年半で、しかも自分として何もできていないと感じているまま戻っても、自分も納得できないし、キャリアになんてもちろんならない。
でも、それ以上に考えたのは、わざわざ福島に移住までしたのに、町の人からたくさんのことを聞かせてもらったのに、それを生かせないまま戻るわけにはいかないということでした。
そこで考えたのが転職でした。移住先のいわき市民として、就職すること。
「支援」という仕事では、どうしても「支援する側」「される側」という立ち位置になります。そうではなくて、同じ「生活者」として、いわきで仕事をしたかったのです。
その時ちょうど、任期付きの福島県の役所勤務の公募が出ていました(なぜだか私は、こういうことに関してはとてもタイミングがいいのです……)。久しぶりに受験勉強(SPI)をし、試験を受け、無事合格しただけでなく、希望通りいわき市に配属してもらえました。
そこでは、福島県内各地からいわき市に赴任している人たちが同僚になりました。それまでは、町の人と支援員仲間(関東や関西出身)が同僚だったので、私以外の同僚が全員福島の人という状況になったのは初めてでした。
そこで確立されたキャラが、「大都会横浜から震災後わざわざ福島に来てくれた、有難いけど変わった人」。これで実は、とても動きやすくなりました。「公務員」ということで、地域から信用を得やすくなる、給与と福利厚生が安定する。ボランティアでやる以上、情報発信も地域活動もプラスの評価に働くという好循環が訪れるようになったのです。
(福島県のゆるキャラ「キビタン」と筆者。2017年5月)
もう一つうれしかったのは、職場が変わり、少し距離を置いたことで、復興支援員時代に関わった町の人たちとも良い関係になれたことです。
復興支援員を辞めても福島に居続けること、関わり続けてきたことで、信頼を得られたのかなと思ったりします。長くその地域に居続ける、それだけでも、信頼は構築されるように感じています。
後編では、転職前後に出会い、私の気持ちを変えてくれた大事な人たちとの出会いや、震災から7年半経った福島で情報発信を続ける意味などをお伝えしたいと思います。
【筆者プロフィール】
山根 麻衣子(やまね・まいこ)
1976年、神奈川県横浜市生まれ。2014年、東日本大震災の復興支援業務のため、福島県いわき市に移住。2016年から『いわき経済新聞』を運営。福島県浜通り地域(主にいわき市、双葉郡)のニュース・インタビューを発信。ほかに、『Colocal』『70seeds』『福島TRIP』などで執筆。福島と県外の架け橋となるライターを目指しています。
Facebook:山根 麻衣子
Twitter:@himawari63
アイキャッチ画像提供:鈴木穣蔵
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