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一番の友が夫であることの物陰のない道を帰りぬ【雪舟えま】

一番の友が夫であることの物陰のない道を帰りぬ
雪舟えま

これと全く同じことを妻に言われたことがあります。
そして、悲しくなったことをよく覚えています。

僕がデータベースとして使っている「闇鍋」には9万首弱の短歌が収録されていますが、妻もしくは夫を「友」と表現する歌はこの一首しかありません。(ちなみに妻もしくは夫の出てくる歌は合わせて1千首弱といったところ)

「友達夫婦」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
友達のような関係の夫婦という意味で、ポジティブな意味では程よい温度感の仲の良さ、ネガティブな意味ではどちらかが性生活が求めているのに応じない微妙に冷めた関係を語るときなどに使うようです。
ちなみにGoogleトレンドで「友達夫婦」の検索率の推移を調べると2012年ぐらいから現在まで上昇傾向にあり、ここ数年で世間に浸透した新しい夫婦のかかわり方であることがわかります。
掲出歌の初出は2009年のはずなので、まだそれ以前。トレンドを先取りしていたとも言えそうです。

もっとも、こういう言葉ができること自体、夫婦と友人関係は性質の異なるものとの前提があってのことです。では、その性質の違いとは何でしょうか?

僕が妻から「一番の友達」と言われたとき、何が悲しかったのか。
「一番」と言い得ることからわかるとおり、友達って複数人いるのが当たり前じゃないですか。だからこそ順位をつけられる。
でも「一番の妻」とは言いませんよね。少なくとも日本では。僕にとっても「妻」という存在は一人しかいないつもりなんです。
友達も妻も親しい人というカテゴリーでは同じですが、友達は内部に段のある箱に各順位ごと入っているようなものであるのに対し、妻はそれとは別の特別な箱に入っている感覚です。
だから妻に「一番の友達」と言われたとき、僕は他にたくさんいる妻の友達の箱の中に一緒に入れられているんだ、一番ではあるが特別ではないんだと思ってしまった。それが悲しさの原因です。

僕にとって掲出歌は、怖いです。

ストレートに読めば、明るい道が象徴している通り、夫との関係はとてもポジティブなものだと主体は感じている。主体は今まさに多幸感に包まれている、ように読める。

でも、だとしたら、なぜ上句は「一番の友が夫であることの」と、下句との接続をねじったのか。例えば「一番の友が夫であることよ」とか、句切れを作れば上句と下句がそれぞれの内容を補完しあって、前述の「ストレートな読み」がはっきりするはずです。
しかし掲出歌は、「あること」と「物陰の」間に少しの溜め、何かを言いよどんだ沈黙があるように感じられる。この「の」の使い方はいくらでも意味が取れてしまいますが、だからこそ掲出歌では特別なニュアンスがあるというより、言い切りを微妙に避けたまま次の叙述につないだように感じます。
そう考えると、今度はなぜ「物陰がない」とやや遠回りな言い方をしたのか気になってきます。「物陰」が気になる理由の一つは、言いよどみのような「の」の次に来る単語だからということもあります。
夫が友であることで、なくなる「物陰」ってなんだろうか?と考えたとき、僕にとってのそれは、相手にとっても自分が特別の箱に入っていてほしいという気持ちなんですよね。一人よがりで、身勝手な執着。達成されなければ、悲しい気持ちになるどころか、相手を憎んでしまうかもしれない。しかしそういう気持ちを持つことができる相手でなければ、わざわざ人生を共にしようと思えない気がします。

掲出歌の主体は、僕のような執着を、夫に感じられていないのではないか。一番の友達が、二番目以下の友達になるぐらいの関係の変化で、彼は夫ではなくなることがあり得る。掲出歌の主体には、そんな自分の可能性を理解している節があるように思えます。理解した上で、今の幸福感には身をゆだねている。
情愛に満ちた詠いぶりの中にひそんでいる、ひとかけらの割り切り、ある種の酷薄さ。主体の見ている世界を想像したとき、ゾクッとしてしまいます。

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