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どうやら私はHSP

“HPS” Highly Sensitive Personの略称。私がどうやらこれらしいと認識できると、生きることそのものに感じる苦しさを和らげることができた。息をするのが少し楽なったような感じ。

HSPを無理矢理に日本語訳すると「とても敏感な人」。何に対して敏感なのかではなく、何に対しても鈍感になれない人たちのこと。実際には人によって差はあるだろうけれど。HSPに対してそうでない人のことを「鈍感な人、タフな人」と称している本があった。(この称し方に、縁側に蚊取り線香くらいにはしっくりきて感動した。)
簡単な診断も収録されているのでぜひ読んでいただきたい。

(私が購入したのはakaさんのプレミアムカバー版でした。こういう類の本に苦手意識があったんだけど、akaさんのイラストのおかげで読めました。)


自分をHSPだと認識して生きることが楽になった1番の理由は、自分と他人を許せるようになったこと。
気がつくか、気にしないか、日常においてその差は永遠に積み重なる。私から見ればどうしてそんなことにも気がつかずにいられるのかが理解できないことが、他人からすればどうしてそんな事を気にしているのか理解できない。
例えば、私にとっては、どうしたって気になってしまうことを「細かいこと」と分類されることがある。「よく気がつくね」「そんなに気にしなくても」と柔らかく表現される事もあるが、これは同時にその人は「気にしない」もしくはそもそも「気がつかない」のだ。私にとって「どうしたって気になること」を。

この気づき差異において私はいつも少数派だった。
「普通、人はこんな小さなことに神経質にならずに自分がやるべきことに集中していられるのに、自分はどうしてこんなに注意力散漫で落ち着かないのだろう、、」
「どうしてこんなことにも気がつかずに生活していられるの?信じられない!!でも、他の人はほとんどが気にしていないし自分が神経質過ぎるだけなのかも、、、」
という具合に多角的に奇跡的な器用さで自分を責め続けることも日常的で、普通の人、タフな人になれるように極めて勤勉に努力していた。努力の成果は実らなかったのだけれど。

努力しても努力しても、タフな人達の世界との差異は微塵も埋まらず、時には絶望した。タフになれない自分がいけないんだと思うと悲しくもなった。そんなことを20余年続けてきたので、ずいぶんなあいだ、生きづらい人生を送ってきていたのです。自殺の手順を真剣に考えることもあったくらいに。


今では、気づきの違いは歩み寄ることがとても難しい事柄なんだな〜と思えている。自分が感じているものや見ているものを他人と全く同じに共有できるはずがない。絶対にありえない。それは別の個体であるから当たり前のことなんだけれど、「分かったつもり」にはなれてしまう。分かったつもりだってことを愚かにも忘れてしまうと、人と自分の違いに虚しく悲しくなってしまうから自分を責め続ける前に深呼吸をして、魔法の呪文を呟く。

「私がHSPだからかも、だから、仕方ないよね」

そうやって世界と自分を許せるようになった。そして時々、本当に嫌なことを人に伝えられるようになった。「あなたの出す、大きい音が苦手なの。できたら気をつけてもらえないかな?」ってね。(私の周囲の人々はとても心優しいので、気がつかなくてごめんねって返してくれる。本当にありがたいことです。)
まだまだ生きるのは難しいし、未来という言葉に明るい印象はないけれど、日々の些細な幸福を大切に感じて生きていられる。私をサポートして導いてくれる全ての人と世界に感謝しながら。

そういえば、「気がきく、気がつく」の話題だと稀に「気がきく動きができる貴方を見習いたいので、コツ教えてほしい。」と言われることがあるけど、これがまた難しい。なんとか答えてあげたいと思うけれど、意識や努力をして得た特性ではないのでコツも何もないわけだ。気になって仕方がないだけなんだもの。私にとっては。

だからいつも、「周りをよく見る。(よく見て、次の動きを考えて、手助けできることを判断する。0.5秒以内に。そして行動に移す。1秒以内に。)」って言ってる。反射じゃん。

草々不一。

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