noteに見る可能性と自己満足の世界

これまでツイッターを主な物書きの場としてきた私にとって、noteの記事投稿は文字制限を気にすることなく、また投稿後も編集可能なだけでも十分にありがたいツールである。

ツイッター同様に『つぶやき』機能もあることも私にはありがたい。だらだらと心の捌け口として文章を書いている事もあれば、『これが書きたい。』
『こういう文章が書きたい。』と思う事もある。

さて私事ではあるが、ある条件下により身体的な拘束を受けており、身体的な自由は効かないが頭と手は動かせる自由な時間について、即ち『暇をもてあましている』時間がある。大半の方々はツイッター等のSNSの閲覧、ケータイによるゲーム。持ち歩いている本の読書等によりその自由な時間を昇華する。言葉は悪いが暇を潰すのだろう。
ケータイのゲームについては、ハッキリ言ってしまうと『つまらない。』暇な時間にプレイするゲーム程つまらないものはない。『今日はゲームやるぞ!』と意気込んでプレイするものがゲームなのだと私は思っている。

批判、反論はご自由にどうぞ。これは私個人の、あくまでも個人的な思考でしかない。個人的な思考に対し意見を述べる事はあっても批判や反論は意味をなさない。と私は思っている。

話を戻そう。タイトルにも付けたが、noteに自分自身の可能性も感じているし、ただの自己満足に終始する可能性も感じている。noteの機能に『購読する』と言うものがあるが、それは個人の自由。金額を設定し、金銭を得る事は賞賛されるべきである。
しかし、だ。私の書く文章について、趣味でだらだらと書いているもの、ただ読んで欲しいもの、心の捌け口としての文章に金銭的な価値は設定するべきではない。と私は考えている。

金額を設定し、金銭を得る事を否定するつもりは更々ない。日本のどこかに居る誰か。そう、この記事を偶然にも見ていただいているあなたに、ただ時間を浪費しているだけの記事について金銭を得る事を私は望んでいない。それでも尚、こんな変人に対してサポートしたい、応援したいと思えるのであれば、その行動については制限するつもりもない。

記事を書くもの自由
記事を読むのも自由

そんな自由があってもいいじゃない。

ただ、書きたいだけの私がいて、
ただ、読みたいだけのあなたがいる。
それで十分なのだ。

これが、この場(note)における私のスタンス。

このような『場』を提供していただいている発案者、管理している管理者の方には感謝しかないことも同時に述べて終わりにしたい。

以上

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