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沖縄の母子(親子)健康手帳のあゆみ

沖縄県では、「親子健康手帳」の名称で知られている、母子健康手帳の沖縄県のあゆみをまとめました。


表紙のダウンロード等は下記WEBサイトがお勧めです♪

※母子手帳をもとに制作された1950年前後の妊娠、出産等がわかる短編映画はこちらご覧頂けます♪ 

『母子手帳』英洋行教育映画部

戦前から戦後初期 1937年(昭和12年)▶1959年(昭和34年)

1942年(昭和17年)に、日本では第2次世界大戦前の時代に、「富国強兵」と「産めよ増やせよ」という国策のもとで、妊娠から出産までの記録をするための「妊産婦手帳」が作られました。この手帳は、食糧不足の中でも、妊産育児に必要な物資の配給手帳としても使われました。戦後には、この手帳は小児まで対象を広げ、世界で初めて母子の健康を1冊でまとめる「母子手帳」となりました。

1937年→1959年
妊産婦手帳

※母子手帳をもとに制作された1950年前後の妊娠、出産等がわかる短編映画はこちらご覧頂けます♪ 

『母子手帳』英洋行教育映画部

琉球政府時代 1960年(昭和35年)▶1971年(昭和46年)

戦後、沖縄は米国の統治下に置かれました。1952年に保健所法が立法され、母性と乳幼児の保健指導が行われるようになりました。翌年、児童福祉法が公布され、1960年には母子手帳の様式も制定され、戦後の母子保健活動が始まりました。

1960年→1971年

復帰後から昭和時代 1972年(昭和47年)▶1988年(昭和63年)

本土復帰した1972年5月以降、国の法律に基づいて施策を行うことになりました。しかし、乳幼児健診については小児科医や特に離島・へき地では医療機関が少なく、実施が困難でした。そこで1973年に創立された沖縄県小児保健協会が県から委託を受け、集団健診方式で乳児健診を市町村で実施しました。翌1974年には、厚生省の派遣により宮古地区で、さらに翌年には八重山地区で母子一斉健診を行い、母子の健診の機会が確保されました。

1972年→1988年
復帰直前は「沖縄」とだけ記載有り

平成から現在へ1989年(平成元年)▶▶▶2023年(令和5年)

母子保健法上は「母子健康手帳」ではりますが、2009(平成21)年に沖縄県では時代のニーズに合わせ、母親や父親が書き込む欄を充実させ、子の成長記録として20歳まで記録ができる「親子健康手帳」に衣替え致しました。

1989年→2023年
2009年-2022年

母子健康手帳の未来へ

《世界に広がる母子手帳》日本で生まれた「母子手帳」は、母子の健康問題に関する知識を飛躍的に向上させました。妊娠、出産、産後子育てに関する行動を改善することで、戦後日本の母子保健水準の向上に寄与したといわれ、国際的に高い評価を受けています。
1980(昭和55)年~1990(平成2)年代頃からは、官民が協力し母子手帳の海外への普及を支援しています。今では東南アジア、アフリカなどを中心に50以上の国や地域でそれぞれの実情に応じてカスタマイズされたものが使われています。

《母子(親子)健康手帳の方向性》
【多様性への対応】
今後は多様な家族に対応できるオーダーメイドの手帳が求められています。例えば多胎児には、妊婦健診の回数に対応できるように健診の記載欄を増やしたり、妊娠・出産に関する情報や、ふたご用の成長曲線が記載された副読本などを母子健康手帳と一緒に配布するなどが望まれます。
外国の方については、やさしい日本語版の母子健康手帳の作成や、すべての希望者に母語の手帳を入手できる体制が必要です。また、障がいのある子どもたちには、発達の月齢や日付が記入できるようにし、親自身にハンディキャップがある場合は、支援者が記入することも想定する必要があります。

[多様性への対応の一例]低出生体重児は、平均的な発達や成長の情報、記録が中心となる現行の母子健康手帳では情報の内容が当てはまらないことがあります。特に低出生体重児の出生率が全国一高い沖縄県では、小さく生まれたお子さんに寄り添う母子健康手帳が望まれていました。そこで、沖縄県が2023(令和5)年3月末に沖縄県リトルベビーハンドブックを作成しました。

沖縄県版 リトルベリーハンドブック

【電子化への対応】電子化することの利点としては、災害などによって母子手帳が破損、紛失した時に記録の復旧が可能なことです。
また、最新の健康情報に上書きすることができ、映像や音声を使うことで、障がい者など特別なニーズのある親子にも情報伝達ができます。一方で、紙媒体は、家族をはじめ異なる職種や機関での健康記録も記入できます。また、それを成人した子どもに直接手渡すことで親子の絆を強める良さがあり、今後は電子と紙の併用が望まれます。