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No.700  羽ぐくめ、育め、母くくめ!

700回の記念に次の歌を紹介します。母から息子への「はぐくむ」思いを三十一文字に込めたこの歌は『万葉集』(巻九)に収められています。最後までお付き合い下さい。

「天平五年癸酉(きいう)、遣唐使の船難波(なには)を発(た)ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌一首 并(あは)せて短歌
1790 秋萩(あきはぎ)を 妻どふ鹿(か)こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿 
子(かこ)じもの 我(あ)が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉(たかたま)を しじに貫(ぬ)き垂れ 斎瓮(いはひへ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 斎(いは)ひつつ 我が思ふ我が子 ま幸くありこそ
1791 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天(あま)の鶴群(たづむら)」
 
「天平五年、遣唐使の船が難波を出発して海に浮かんだ時に、ある母親が子に贈った歌一首と短歌
1790 秋萩を 妻問う鹿こそ 一人子に 子を持つというが 鹿の子のように 一人子の我が子が (草枕) 旅に出かけて行くので 竹玉を いっぱい通して垂らし 斎瓮に 木綿を取り付けて垂らし 慎みつづけて 私が大切に思う我が子よ 無事でいておくれ
1791 旅人が 仮寝をする野に 雪が降ったら 我が子を羽でかばっておくれ 天の鶴の群れよ」
(本文・口語訳は、小学館の『日本古典文学全集』に学びました)
 
天平五年(733年)に第9回(第10回とも?)遣唐使船が大阪の難波を出発する時に、一人の遣唐使の母親が、息子の無事を祈って詠んだ歌です。「育む」の語源は、鳥が羽の下に雛を包んで子育てをする意味の「羽くくむ(含む・包む)」 という言葉が変化したものだと言われています。思いが形に表れた、嬉しくなるようないい言葉ですね。
 
たったひとりの我が子が、遣唐使として旅に出て行くので、様々に身も心も清め、神にお祈り申しながらも我が子の身を案じるのです。
「我が子よ、無事であっておくれ。」
「飛翔する鶴の群よ、我が子が霜の寒さで難儀したら、私の代わりにしっかりと羽で覆って庇ってやっておくれ。お前を頼りにしているよ。」
と訴えかけ祈り願っているのでしょう。深くて、厚くて、尊い母心です。
 
天平五年(733年)のこの第9回遣唐使は、難波津から出発し、多治比広成が大使を、中臣名代が副使を務め、4隻の大船隊に594人を乗せ、8月に蘇州に到着しています。ところが、翌年の734年、多くの文物を満載して帰国の途につくはずだった4隻の船団は、折悪しく、嵐に遭ってしまったのです。
 
4隻とも同時に蘇州の港を出たようですが、不安定な強風のために、離れ離れに流されてしまいます。1隻は、種子島に流れ着き、4か月かけて平城京に帰還しました。もう1隻は、中国越州の地に舞い戻り、翌々年の再度の帰国挑戦で成功しました。更に、もう1隻は、記録になく、沈没して全滅したか、無事帰国したかは不明だといいます。
 
そして、115人が乗船していた最後の1隻は、大きな悲劇が待っていました。嵐で南方の崑崙(ベトナム)に漂着したものの、現地の賊たちに襲われ、約20人は彼らに殺されるか、逃亡したまま行方不明になりました。残る90人余もマラリア等の病に倒れ、命を失いました。生き残ったのは、大使・多治比広成、副使・中臣名代と平群(へぐり)広成を含む4人だけだったといいます。
 
その彼らは、命からがら崑崙(ベトナム)王に面会するも、監禁状態になってしまいます。運よく中国の役人が崑崙に来て、彼らを救い出し、4人はベトナムから長安への約3千kmを戻り、渤海国(朝鮮半島北部の国)からの船に便乗して、実に6年ぶりに帰国を果たしたそうです。その苦難の足跡をまとめたのが、『天平グレート・ジャーニー 遣唐使・平群広成の数奇な冒険』(上野誠、講談社文庫)という本です。
 
以上のことから想像すると、「天の鶴群」に思いを託した母親のたった一人の息子が、母親のもとにもどれた可能性は、相当厳しいものだったに違いありません。最愛の一人息子に向けた母の「くくむ(包み込む)」心が、1289年の時を超えて蘇って来るのです。
 
「祈るかに母は鶴折る星月夜」
 林昌華
この「折り紙」の文献が見られるのは江戸時代からだそうです。奈良時代の遣唐使のお母さんも鶴を折ったのではなかろうかという私の妄想は、あっけなく潰えてしまいました。

※画像は、クリエイター・れんれんさんの、タイトル「死別経験者だって十人十色」をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。