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No.565 私が見たシュリハンドク

学園祭のテーマと言うと、青春・団結・祭り・伝統・世界・自由・絆・未来そのほか、スケールの大きい、若者の知的パワーのあふれる文化の香りのするものが多いと思います。
 
ところが、某年の我が校の学園祭でのテーマは、何と「教室のクリーンアップ」という泣く子も黙るどころか、一層大泣きするような、ピンポイントの狭小スローガンでした。
「自分たちの学びの場を、とことん美しく磨いて身も心もリフレッシュしよう大作戦!」
は、他クラス、他コース、他学年に負けまいと、あの手この手で磨き上げるだけでなく、室内装飾にも拍車がかかり、審査員の目を細めさせたり、眉を吊り上げさせたりしました。
 
本来なら、その場限りで終わるのではなく、継続の証として、県下にその名をとどろかす程の清潔感ある校舎として名を上げることを目論んだ生徒会案だったと思われました。しかし、その意識は、学園祭の時を最高潮として、次第に薄れて行きました。
 
そんな中、あの文化祭での取り組みで、心に「磨きのスイッチ」が入ってしまったかのような御仁がいました。K先生は、あの日以来、放課後の空き時間を利用しては、自分のクラスどころか、校舎内の壁や床の汚れなど、気づいたところを紙やすりと金属ベラで落としてまわるようになりました。
 
たった一人で黙々と汗も気にせず校舎内の美化に励んでいる姿は、求道者のようです。ふと、お釈迦様の弟子で周梨槃特(シュリハンドク)という人の話を思い出しました。
 
自分の名前も忘れてしまうシュリハンドクは、名前を忘れないように、自分の名を書いた看板を背負っていました。お釈迦様から1本の箒を持って掃除をするように言われ、
「塵を払わん、垢を除かん」
と唱えながら励んだそうです。ある時、せっかく綺麗にした所を同僚に汚されて怒ってしまいます。その瞬間、汚れていたのは自分の心だと悟ったと言います。彼の掃いたところからは光がしたと言います。周りから疎まれながらも、お釈迦様の教えを守り、十大弟子に数えられるまでになった人です。
 
茗荷(みょうが)とは「名前を荷う」と書きます。自分の名前も覚えられないので、名の書いた看板を背負っていたシュリハンドクの墓から生えてきた植物だから、その名が与えられたと言います。因みに、茗荷には、物忘れをさせるような働きはないそうです。
 
 さて、仏教詩人の坂村真民には「鈍刀を磨く」という詩があります。
「鈍刀をいくら磨いても
 無駄なことだというが
 何もそんなことばに
 耳を借す必要はない
 せっせと磨くのだ
 刀は光らないかもしれないが
 磨く本人が変わってくる
 つまり刀がすまぬと言いながら
 磨く本人を
 光るものにしてくれるのだ
 そこが甚深微妙の世界だ
 だからせっせと磨くのだ」
 
「甚深微妙」とは「物事の奥底、極めて細かいところまで観察したとき、そこに見える大切なもの」だと教えているようです。やり遂げ、成し遂げなければ味わえない感覚、見えない世界なのかもしれません。シュリハンドクは20年間掃除を続けました。K先生も、退職なさる時まで暇を見つけては続けていました。甚深微妙の世界を垣間見ることができたのかもしれません。そんな畏敬する同僚もいました。