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No.1346 「今年は、うめー米が出くるぞ!」

台風で忘れられないお話があります。読んでいただけますか?
 
わが家は、大分県の鄙びた山村にある兼業農家でした。小さな部落で家が7軒しかなく、麦や米だけで生計を立てる家もありましたが、出稼ぎの家や兼業農家もありました。
 
昔は「五反田」の屋号を持つ我が家でしたが、私が子供のころには実質「三反田」になっていました。一家7人を養ってくれる大事な、大事な、お米でした。
 
その年は、天気にも水にも恵まれ、「霧差し」(土地の呼び名)の田んぼは黄金色に染まりました。稲刈りを終えた稲束は、田んぼに作られた「稲架(はさ)」(竹や木を組んで、刈った稲を掛けて乾かす仕掛け)に掛けて、10日から2週間近く天日干しをしました。画像は、その「稲架掛け」です。
「今年は、うめー米が出くるぞ!」
気難しがり屋の松宇爺さは、珍しく眉間の縦ジワをのばしながら、家族の手伝いにも気をよくしていました。

ところが、そろそろ乾いた稲束を脱穀しようかと相談していた頃に、豪雨を伴う猛烈な台風がやって来ました。昭和40年代初めのことでした。当時も台風情報はありましたが、今のように行き届いた放送ではありませんでした。そのために最悪の事態の判断が鈍り、早めの脱穀に着手しなかったのです。

台風は、容赦のない大雨をもたらしました。「バケツをひっくり返す」という言葉を、漫画の世界でしかお目にかかったことはありませんでしたが、その時の豪雨は、すさまじいものがあり、スコールが降って来たようでした。

「霧差し」の田んぼの横に4m幅の道路が通っていましたが、その道路に沿って幅7~8mの川が流れていました。夏には泳ぎましたし、魚釣りもした川です。その川が氾濫したのです。私は71年間生きてきましたが、あの川の氾濫を見たのは13歳のあの時が、たった1回あるきりです。

「ああ、大変じゃ、稲架掛けした稲が流さるる!」
祖父が早朝に気付いて声をあげた時には、道路は完全に冠水し、田んぼに濁流が流れ込んでいる時でした。人を寄せ付けない、「身の危険」を感じさせる暴れる川に変身していました。

わが家は、道路より3m程高台に立っていました。その南側の部屋に家族みんなが集まって、300m先の「霧差し」のこれから起きる悪夢を黙って見守るしかありませんでした。

上流から勢いをつけて下って来た濁流は、「獲物を見つけた」かのように「霧差し」の田んぼに土足で踏み込むと、「稲架掛け」を何本(何台?何基?何架?)もなぎ倒し、ほぼ乾いていた稲束を丸呑みしてしまいました。自宅の部屋から目視できるその惨状に、
「ああっ!」「あーあ!」「キャーッ!」
という悲鳴を上げる以外になく、「絶望」のあまり、石のようになった祖父は、拳を固く握りしめていました。

田を耕し、水田を作り、モミを蒔き、早苗を育て、田植えをし、稗(草)を取り、薬の散布をし、半年以上、毎日のように田んぼに出て手間暇かけて育てた稲が、米になる直前で自然の猛威に奪い去られてしまったのです。それこそ、努力が水泡に帰した瞬間でした。

結局、残る2反(別の場所にある田んぼ)の米のお陰で、何とか凌ぐことが出来ました。祖父の農夫人生にとっても初めてのこの災害が、生きた教訓になったことは間違いありません。稲の収穫と台風の時期が重なってしまう日本では、繰り返される悲劇でしょう。そんなこともあって、「稲架掛け」をせずに稲刈りと脱穀を一気に行い、農協に持って行き、乾燥機にかけるようになりました。

被害を最小限に食い止めることは出来るようになりましたが、
「稲架掛け」→「脱穀」→自宅前の筵の上での「籾の乾燥」(数日間行う)→「精米」
という手順を経た昔の「米」に美味さが秀でるように思われるのは、子どもの頃のヨダキー(面倒くさくて大変な)体験が、そう思わせるからでしょうか?あるいは、三和土の大きな釜で薪でご飯を炊いたから、お焦げの味わいと共にうまみが増したように思いこんでいるに過ぎないのでしょうか?

今も、「稲架掛け」にこだわりながら美味い米づくりに勤しんでおられる農家の方もいることでしょう。心から敬意を表します。

祖父母も父母も、もう随分前に泉下の人となりましたが、私には、台風が来る度に、フラッシュバックして来るあの日の映像をいかんともできません。しかし、あの日の美味しいコメは、悪魔たちの喉をうならせただろうなと勝手に思っています。58年が経った今でも。


※画像は、クリエイター・大森 雄貴 / Yuki Omoriさんの「大阪の住宅街に立ち寄った時に見学した稲架がけの様子」の1葉をかたじけなくしました。わが家も、まさにこんな感じでした。懐かしく思い出されます。お礼を申し上げます。