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No.987 私が、さがしあてたものは?

1冊の本を借りに大分県立図書館を訪れたのは4日前のことです。しかし、22人の予約待ちで借りられませんでした。慌てて大分市民図書館に電話で尋ねると、何とこちらは119人もの予約待ちだとのことでした。
「同じ本を4冊入れているんですが、すぐには無理かもしれません。」
と丁寧に教えてくれました。西加奈子著『くもをさがす』は、大分でも評判です。

あなたはがんです。そう医師に告げられたらどうするか。最新の医術をもってしても日本人の死因の3割を占める。動揺しない人はいまい。▼昔は家族にだけ伝えるのが主流だった。諸説あるものの、本人宣告を一般的にしたのはアナウンサーの故・逸見政孝さんの公表会見(1993年)が潮目になったとされる▼人気作家・西加奈子さん(46)の近著『くもをさがす』(河出書房新社)は、留学先のカナダで乳がんになった自身の体験記だ。感情の機微をリアルにつづる平明な文章が読み手のココロをわしづかみにする▼コロナ禍で逼迫(ひっぱく)した異国の病院で、両の乳房を切除する。にもかかわらず重たい闘病記になっていないのは、大阪のおばちゃんテイストをまぶした看護師らとの会話(和訳)の妙だろう。「生」に向き合う強さ、弱さ、はかなさ、幸せ…。飾らない筆致に考えさせられる▼西さんと言えば、父親が杵築市狩宿出身の準大分県人である。「幼い頃は何度も里帰りして、夏は朝から晩まで奈多海岸で遊んでた」。数年前に小紙の取材に応じた際の、キラキラさせていた黒い瞳が忘れられない▼誰も一人では生きていけない。彼女は最後に書いている。〈会ったことのない「どこかで生きているあなた」に、これを読んでほしいと思った〉。必読の良書であることは言をまたない。

大分合同新聞コラム「東西南北」(2023年8月17日)

2年前の2021年8月17日(火曜)、私は、9月初旬に予定されている古典講座の資料を1週間かけて完成しました。それは、古典落語「雁風呂」の全文を皆が落語家になったつもりで順番に読み通し、そののちに深代淳郎の天声人語「雁風呂」(昭和48年9月16日)を味わい、さらに1974年(昭和49年)にサントリーが流したCM(山口瞳の「雁風呂」)のしみじみとした話と語りを紹介して日本人の情の細やかさを考えようというものでした。
 
その同じ2021年8月17日に、カナダのバンクーバーに在住していた西加奈子さんは、クリニックの医師から乳がんと宣告されました。そして、日記に留め始めたそうです。先の、大分合同新聞のコラム「東西南北」の8月17日に西さんの『くもをさがす』が掲載されたことは、ただの偶然ではあるまいと私は思いました。
 
その東西南北のコラムに刺激を受け、猛烈に読みたくなって県立図書館に向い、市民図書館に電話した先の次第となる訳ですが、すぐには読めないことが分かりました。そこで、帰り道に本屋に立ち寄り、積み上げられた『くもをさがす』の本の1冊を手に入れました。

 まるで、ゴジラのようだ。私たちが作り出した放射能が、ゴジラを産んだ。生まれたからには、ゴジラは生きようとする。東京に上陸したゴジラは、ただ歩いているだけで様々なものを破壊し、人の命を奪う。攻撃され、口から紫の炎を出し、その炎で東京の街を焼き尽くす。でもそれは、悪意からくる行為ではない。
 がんも、ゴジラと同じだ。ただ、彼らの存在それ自体が、私たちと相容れないだけだ。どちらかが生きようとするとき、どちらかが傷つくことになっている。(55ページ)

西加奈子さんは、ステージ2Bのトリプルネガティブ乳がんを患い、変異性遺伝子がんのため両乳房切除、将来的には卵巣も摘出することが望ましいものだったそうです。その担当医や関わった看護師との会話のやりとりを、関西弁(大阪弁)のノリで書くと言う奇抜にして斬新な笑いの処方箋で、読む者の痛みや苦しみも和らげてくれます。
 
担当医
マレカ…乳がん執刀医。きれいな術後の傷跡に確かな腕前を見る。
看護師
リサ…担当になるたびに静脈を褒めてくれた人。
ケリー…冗談が大すき。「毛布をもらえる?」「1枚10ドルな~!」
クリスティー…おしゃれな人。「がん患者やからって、悦びを奪われるべきやない」
ジュリアン…漢方医。東洋医学も西洋医学も知識を豊富に持っていた人。
サラ…インターン。「あなたの体のボスは、あなたやねんから。」
イズメラルダ…乳がんサイバーの看護師。長年の体験と自信がみなぎる、信頼に足る人。
 
彼らとの手術前後のやり取りが、西さんにはツッコミどころ満載だったようです。そこで、彼女のツッコミ表現のエキスのみを紹介し、状況を想像してもらおうと思います。

手術直前にタイレノール(解熱鎮痛剤)を飲んでいないことが分かっても、
「カナコ、じゃあ行こ!」
いや、行くんかい!(161ページ)
 
私の口にめちゃくちゃ大きな真っ赤なタイレノールを3粒放り込んだ。コップに入った水は、お猪口に入ったくらいの量だった。
「いや、飲めるかい!」(162ページ)
 
「カナコ、大丈夫やで。パルスオキシメーターは正常やから。」
またそれかい!(164ページ)
 
 
「カナコが大丈夫そうやから、部屋を移るわな。」
いや、どこが大丈夫やねん!(165ページ)
 
乳がん切除後、日本ではドレーンが外れるまで入院だが、バンクーバーは、両乳房全摘手術でも3時間で退院と言う鬼システム。目を疑ったのは彼女だけではありません。
 
時計を見ると、5時を過ぎていて、なるほど退院時間の3時は大幅に過ぎてしまっていた。
いや、そもそも無理あるやろ!!(165ページ)
 
「カナコ、どう?もう歩けそう?」
いや、絶対無理や!(165ページ)
 
「調子が良さそうやから、ドレーンケアの説明するわな。」
どこが調子よさそうやねん!(165ページ)
 
「あの、リンパは切除したんですか?」
「ああ、したで、3本。」
「3本。」
「ほな!」
いや、「ほな!」やないやろ!(167ページ)
 
ドレーンケアの説明を受けた後、
「簡単やろ!」
そういう問題かい!(168ページ)
 
「そろそろ、迎えの人呼ぶ?」
いや、どんだけ帰らせたいねん!(168ページ)
 
「服着た?待合室で待ってて!」
いや、座って待たなあかんのかい!(169ページ)
 
友人のノリコが迎えに来てくれた。
「なんか引受人としてサインとかした方がいい?」
そう聞いた。看護師二人は、
「え、いらんよ~、あんた、カナコの友達やんな?」
ユル過ぎるやろ!(171ページ)

もう抱腹絶倒のシーンは、失礼ながらお笑い芸人のキングオブコントでも見る思いです。
 
その彼女は、多くの友人知人に恵まれ、コロナ禍で世界の医療現場が混乱の渦中にありながら、異国の地カナダで、何とか乳がん手術までの長い道のりに堪え成功するのです。
ノリコ…つやつやと光って、生命力に溢れていた。どんなに辛くても笑いに変える人。
マユコ…まっすぐに育った百合のような人。透明で繊細だが、とても芯が強い人。
チエリ…誰にでもオープンマインドで好奇心旺盛。向日性の大輪の花のような人。
メグミ…専業主婦。Meal Train(術後や出産後の女性の所に、順番に夕ご飯を届けてあげようというもの)の一人。
ナオ…理想のギャル像を体現した、専業主婦で美味しい手の込んだ食事を届けてくれる人。
ユキエ…乳がんサイバー。「自分の身は、自分で守るの」と教えてくれた人。
美容師のマサ…「ツケにさせてください」「絶対に、また来てもらわないと困るんで」
コニー…乳がん罹患の先輩。穏やかで思いやりがあり、エネルギーに満ちている。
 
そして、自ら高らかに宣言するのです。

乳房、卵巣、子宮、という生物学的には女性の特徴である臓器を失ったとしても、(ちなみに今私は坊主頭だが)、それでも私は女性だ。それはどうしてか。私がそう思うからだ。私が、私自身のことを女性だと、そう思うからだ。(192ページ)

22歳で白血病を患い、1500日間の抗がん剤治療、そして骨髄手術を受けたジャーナリストでライターのスレイカ・ジャワードは言いました。

「私が辛かったのは、がんが治った後でした。」
「生き残る」というたった一つの目標のために、休むことなく戦ってきた彼女が、目標を達成して退院した日以来、今後どうやって生きて行ったらよいか分からなくなったと言います。(225ページ)

しかし、術後、快方に向かった西加奈子さんは、次のように自分を見ていました。

 治療が終わった今も、人生の目的を失ったとは思っていなかった。何故なら私には「書くこと」があったからだ。実際、このエッセイを書き始めたのは治療中だった。ほとんど現在進行形で起こっていることを日記と共に書き、書くことで前に進んできた。でも、だからこそ、書くという行為がなければ、自分はどうなっていたのだろうと思う。(225~226ページ)

西さんは、弱い自分をさらけ出します。

 がんを告知された直後や治療中、皆は私の恐怖に心から共鳴し、寄り添おうとしてくれた。そしてその恐怖は、真正なもの、とでも言うべきものだった。おかしな言い方だが、「怖がることがまっとうな恐怖」だった。(230ページ)
 皆が経験するはずのその死を、私はこれ以上ないほど怖がっている。死にたくない。少なくとも「もう死んでいいか」と納得できる日なんて、私には来ない気がする。きっと死ぬ瞬間、最後の最後まで、それはもう、本当にみっともなく、怖がり続けるだろう。(232ページ)

私は読み進めるうちに、西加奈子と言う自分の心に真っ正直で、恐れを隠さず、惨めさも汚さも隠さず、ありのままの姿をさらけ出す彼女を、いつの間にか、愛おしさのあまり抱きしめたいような思いに駆られていました。
 
ところが、

 カナダに来て、自分が「ハグ好き」であることが判明した。日本にいたときは、体が触れ合うのが嫌いな人もいるだろうし、セクハラになったらどうしよう、そんな風に、いつも遠慮してきた。というより、そもそもハグをしようと思い至らなかった。そんな習慣がなかったからだ。
 でも、カナダに来て、いろんな人とハグするうち、ああ、私はハグがしたかったのだと思った。(239~240ページ)

の文章に出合って本当に驚き、私は『くもをさがす』をグッと胸に近づけました。
 
巻末(251~252ページ)には「ヨーコ・コレクション」なる河出書房新社の坂上陽子さんから送ってもらった本の一部が掲げられてありました。30冊もありましたが、私の読んだことのある本は1冊もありませんでした。それらの本の中の珠玉の一文が、本の中の幾つもの場面で輝いています。西加奈子という作家の創作土壌の豊かさにも、感服させられる1冊でした。そこには、素っ裸の女性の、熱い人生哲学がありました。シビれました。
 
厚かましいご紹介ですが、仁の音「No.841 一冊の絵本」(2023年4月2日)に、西加奈子さんのことを少し取り上げたことがあります。併せてご一読いただければ幸甚です。


※画像は、クリエイター・稲垣光威さんの、「朝露の蜘蛛の巣」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。