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No.1267 愛のカタチ

『十訓抄』は、1252年(建長4年)に成立したという鎌倉時代の説話集です。その中巻「第六 忠直を存ずべき事」の六ノ二十二に「望夫石」のお話があります。

本文・・昔、夫婦、あひ思ひて住みけり。夫と軍にしたがひて遠く行くに、その妻、幼き子を具して、武昌の北の山まで送る。男の行くを見て、悲しみ立てり。男、帰らずなりぬ。その子を負ひて、立ちながら死にたるに、化して石となれり。その姿、人の子を負ひて立つがごと、これによりて、この山を望夫山と名づけ、その石を望夫石といへり。くはしくは幽明録に見えたり。
 しららといふ物語に、しららの姫君、男の少将の、「迎へに来む」と契りて、遅かりしを待つとて詠める、この心なり。
 頼めつつ来がたき人を待つほどに石にわが身ぞなりはてぬべき

口語訳・・昔、夫婦が、互いに愛しく思い合いながら住んでいた。ところが戦争が起きたので、夫と共に戦に向かって遠くまでやってきたのだが、その妻は幼子を連れ、武昌の北の山まで夫を送って来たのだった。夫が戦に遠く去っていくのを見て、悲しい思いでずっと立っていた。しかし、夫は戻って来なかった。妻はその子を背負って、立ったまま死んで、石となってしまった。その石は、人が子供を背負って立っているような形をしているので、この山を望夫山と名付け、その石を望夫石と呼ぶようになった。詳しくいことは、中国の『幽明録』に載っている。
 『しらら』という物語に、「しららの姫君」が、夫の少将が「迎えに行きます」と約束しながら、遅かったのを待っているときに詠んだ歌があるが、これも同じ心である。
 「あてにさせておきながら、なかなかやっては来てくれない。そんな人を待っていると、私の体は石となってしまいそうです。」

『幽明録』は、南朝宋の皇族で、劉義慶(403年~444年)という人の著した書物だそうです。こんなに哀れでいて純愛な伝説を収めているところが、ゆかしく思われます。愛の形は様々でしょうが、「待ち詫びて石になる」という思いの深さに、やられてしまいます。

思い余って「石」になるという発想は、『万葉集』巻5(871番~875番)の松浦作用姫(まつらさよひめ)の伝説にも見られますが、『幽明録』との関係や影響はどうなのでしょう?

また、『しらら』という書名は、藤原孝標の娘の書いた『更級日記』(1060年頃までには成立?)に登場します。

本文・・「何をか奉らむ。まめまめしき物はまさなかりなむ。ゆかしくしたまふなる物を奉らむ。」とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、一袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。

口語訳・・「何を差し上げましょうか。実用的なものは、つまらない(良くない)でしょう。」欲しがっていらっしゃると聞いている物を差し上げましょう。」と言って、源氏物語の五十余巻を、櫃(木箱)に入ったまま、「在中将」「とほぎみ」「せり河」「しらら」「あさうづ」などといういろいろな物語を、(叔母が)一つの袋に入れて(くださったのを)もらって帰る気持ちの嬉しさといったらありません。

現在は散逸してしまったと言われる『しらら』です。高校生の時に、どんな本だろうかと印象に残っていた名前でしたので、先の『十訓抄』の中に見出した時には、何か掘り当てたように驚嘆し感動しました。偶然の出合いの妙に「ドキッ!」とさせられたのでしたが、すでにネットで紹介されおり、「知らぬは私ばかりなり」というお粗末の一席(一石?)でした。