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No.810 鼓動が聞こえる生きた言葉

3月1日(水)午前8時からのBSプレミアム「英雄たちの選択」は、「検証!200年前のロシア危機〜露寇事件 松平定信3つの意見書」(再放送、初回放送日: 2022年8月31日)でした。
 
番組の終わりで、司会進行役でもある磯田教授が「大和魂」ということを述べました。それは、江戸時代末期に開国や通商を迫ってきた外国に対し、日本の武威を示そうとした当時の日本人の精神的なあり方という脈絡の中で使われた言葉でした。
 
国学者で医師だった本居宣長(1730年~1801年)が61歳となった寛政2年(1790年)に自画自賛像の賛として書いたのが、私達のよく知る次の歌です。
「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」
(日本人の心とは何かと人に聞かれたなら、朝日に照り輝く山桜の美しさに感動する心だとでも申しましょう。)
大和魂は大和心と同義に解釈されていますが、その歌に情趣こそあれ荒ぶる心はないように思います。
 
その半世紀以上も後の幕末の動乱の世に、吉田松陰(1830年~1859年)は外国への憧れから外国船での密航を企て失敗するのですが、そのはやる気持ちを歌にした
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(1854年)
であるとか、攘夷を唱えて、安政の大獄で処罰された時の辞世の句、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」(1859年)
と詠んだことで、「やむにやまれぬ大和魂」「朽ちぬともとどめおかまし大和魂」などの言葉が、国粋的な日本民族の気概や精神を歌ったかのように拡大解釈されたといわれます。
 
私が高校生の頃、古典で習った『大鏡』の中にも「大和魂」が出てきました。あの右大臣菅原道真(享年59)を醍醐天皇への讒言によって大宰府に左遷させてしまった藤原時平(享年39)のことを述べた「左大臣時平」の条にその言葉が見られます。
 
「あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを」
(もってのほかの悪事を天皇に讒訴して行われたその罪ゆえに、この時平公のご子孫はいらっしゃらないのです。とはいうものの、時平公は世間的な知恵・才能などがたいそう優れていらっしゃったのにねえ。)
 
そもそも「大和魂」とは、「漢」(中国)に対する「大和」(日本)の意識から生まれたものだそうです。「隋」は飛鳥時代、「唐」は奈良・平安時代、「宋」は平安時代、「元」は鎌倉時代にそれぞれ対応する中国の呼び名でしょうが、「漢才(からざえ)」に対応する語が「大和魂」だったと言われています。その昔は、どんな意味だったのでしょうか。
 
初出例は、意外にも『源氏物語』(1008年?)だったようです。 『学研全訳古語辞典』には、以下のような説明がされていました。
「やまと-だましひ」 【大和魂】
名詞「やまとごころ①」に同じ。
出典源氏物語 少女
「なほ才(ざえ)を本(もと)としてこそ、やまとだましひの世に用ひらるる方(かた)も、強う侍(はべ)らめ」
[訳] やはり漢学の学識・教養を基本にしてこそ、物事を処理する実務的な能力が世間で重んじられるということも確実でしょう。◇漢詩文・漢学の能力「才(ざえ)」に対していう。

『大鏡』は平安時代の歴史物語です。1073年~1141年の間に完成したと言われ、『源氏物語』よりもかなり後れていますが、『大鏡』に見られる先ほどの「大和魂」の解釈としては、『大鏡一』(完訳日本の古典28、小学館)に「日本人固有の知恵・才覚または思慮分別」とされていました。

私が高校生の時に使った『旺文社古語辞典』(昭和47年1月20日、重版)にも、
「やまと-だましひ【大和魂】(名)
 ①日本人固有の才幹。日本人の生まれながらにして持っている才能・知恵。また、世才・俗才。「人がら-の優りて」(愚管抄)漢才(からざえ)
 ②日本人固有の精神。=大和心。「事に迫りて死を軽んずるは-なれど」(弓張月)
とありました。国語科の恩師の安部先生は、『大鏡』の「大和魂」を①の解釈で説明されていました。
 
言葉は、時代と共にその意味を変えてゆきます。言葉は生き物であり、そんな宿命を背負っているのだとも思います。今日の「大和魂」とは、「勇猛で潔い日本人の精神」という意味でしょうが、本来は「日本人の才能や知恵」のことでした。元々の意味を知っておくことは、解釈に齟齬を生まないためにも必要な事ではないかなと思いました。


※画像は、クリエイター・志彌 -ゆきみ-さんの、タイトル「紫式部 ⭐️志彌のフォトアルバムから⭐️」」をかたじけなくしました。紫式部も「大和魂」の言葉を使ったのですね。お礼申します。