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No.1044 研いだのは?

かれこれ30年以上が経とうとしています。その年の冬、サンタさんから「刺し身包丁」をプレゼントされました。翌年は、ご丁寧にも「砥石」が贈られました。おかげで、少し腕が上がりました。
 
「研ぐ」と言えば、小川国夫の「物と心」(1966年)という2ページほどの小説があります。兄(宗一)と弟(浩)が貨車積みのホームへ行き、鉄のスクラップの山をあさって小刀を拾い出し、一生懸命に研ぐというお話です。
 
しかし、無心に研ぐ兄に対して、邪心に囚われる弟の心の葛藤や焦燥が、いびつな形で頭をもたげるのです。弟は、ちょっと卑怯な手段に訴えました。それは、読んでからのお楽しみにしてください。その物語の淡々とした事実の羅列の雄弁さと「心を研ぐ」ことを教えられた私です。
 
その後、偶然ですが、図書館の書棚にあった山本一力の『研ぎ師太吉』(新潮社、2007年)に目が行き、借りて読んだことがあります。
「一本の庖丁が暴いていく、切ない事件の真相とは。切れ味抜群の深川人情推理帖」
とは、出版社のキャッチコピーです。その中で、主人公の太吉に説き聞かせる師匠・楯岡龍斉の「研ぎの極意」に我が頭を叩かれる思いがしました。
 
「切れ味は、すでに刃物の内側にひそんでおる。研ぎをする者の務めは、刃物を砥石にあてて、その切れ味を内からとりだしてやることだ」
研ぎ師の腕がよいから刃物に切れ味が生まれるのではなく、元々の切れ味は刃物に内在している。研ぎ師は、それを引き出してやれと言うのです。
 
そのものの持つ力を引き出すとは、長く教育に関わる者の資質として求められて来たものでしょう。その技術を教える教師としてだけではなく、子どもたちに内在する能力を導き出して育てる教育者として…。

乱暴な言い方ですが、引き出すすべさえ教えれば、子どもたちは放っておいても伸びてゆく、スゴイ存在なのかもしれません。
 
教師などと言っても、小学校は6年間、中学・高校に至っては3年間ずつしか関われません。しかし、視点を変えれば、親御さんたちは12年間も「一貫教育」をされている教育者(人生の先輩として、人生に有益な躾を教える人として、何より愛情深く育てる人として)だと言えます。
 
家庭と、学校と、社会が、お互いの力を出し合い、お互いが心を研いで子どもの可能性を導き出し育てられるようでありたいものです。誰かに任せればいいというものではないと思います。


※画像は、クリエイター・chamlandさんの、包丁研ぎの1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。