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写真のように 第4回 静止した時間が再び動き出すとき 展覧会時評:「写真の都」物語 名古屋写真運動史:1911-1972(名古屋市美術館)

さる2021年3月28日を持って終了した名古屋市美術館開催の『「写真の都」物語  名古屋写真運動史:1911-1972』(以下、写真の都物語)について書いておきたい。本展を取り上げる理由は二つ。きわめて綿密なリサーチを基に企画・実施された2021年前半における屈指の充実した展示であったこと、そして図録の完成度と充実度が半端なく良かったことだ。本稿では全六章からなる同展の展示を振り返り、同展で取り上げられた写真作家と作品をかいつまんで解説し、最後に同展の意義について論じたい。

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fig.01 「写真の都」物語  名古屋写真運動史:1911-1972 会場入口(名古屋市美術館)

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fig.02 展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』(国書刊行会、2021年)


「写真の都物語」展オーバービュー

「写真の都物語」展を企画したのは、名古屋市美術館学芸員の竹葉丈である。竹葉は特に第二次世界大戦以前の日本においてアマチュア写真の主流だったピクトリアリスム(表現主義)写真の専門家で、時間と労力を惜しまない綿密な調査を経て近代史に埋没した写真作家とその作品、業績に再び光を当てるといった仕事を手掛けている。なかでも「写真の都物語」展の4年前、名古屋市美術館で2017年に開催された「異郷のモダニズムー満洲写真全史」では、綿密な調査で知られざる満洲国の写真史を掘り起こし、同展の企画・制作によって2018年の日本写真協会賞学芸賞、同写真の会賞特別賞を受賞している。また、同展では竹葉が編集・制作を手掛けた図録(国書刊行会発行)も緻密で完成度の高い内容を持つとして好評を博した。
「写真の都物語」展は名古屋を舞台に繰り広げられた写真作家の活動と交流を時系列に追いながら、明治・大正期から1970年代に至るまでの名古屋を中心とした中部地区の写真史を浮上させることを目的としている。展示は6部構成で、Ⅰ章「写真芸術のはじめー日高長太郎と愛友写真倶楽部」、Ⅱ章「モダン都市の位相ー新興写真の台頭と実験」、Ⅲ章「シュルレアリスムか、アブストラクトかー前衛写真の興隆と分裂」、Ⅳ章「客観と主観の交錯ー戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗」、Ⅴ章「東松照明登場ーリアリズムを超えて」、Ⅵ章「中部学生連盟ー集団と個人、写真を巡る青春の模索」となっている。本稿では、特にⅠ章に登場する中部写真界の始祖・日高長太郎とその作品、Ⅲ章において戦前の前衛写真で活躍した坂田稔と下郷羊雄、Ⅴ章で登場する戦後写真の巨人・東松照明、Ⅵ章の学生写真と社会運動を取り上げ、私見を述べつつ批評を行う。

日高長太郎のソフトフォーカス・ゴム印画技法に見る「独創」

Ⅰ章では主に大正期に名古屋・中部地区の写真を牽引した日高長太郎と彼が主宰した「愛友写真倶楽部」の会員の作品が展示されている。当時のピクトリアリスム写真は、ガラス乾板と大型カメラを使って撮影し、ゴム印画技法(*1)や鉛筆等でガラス製の乾板(銀塩写真のフィルムに相当)に直接描くハンドレタッチなどを使って、版画のような一枚絵としての作品を仕上げるものだった。「愛友写真倶楽部」の始祖である日高長太郎は、後年に山岳写真の完成者とも呼ばれたが、本展ではソフトフォーカスを使った独自の水墨画のような作品と、ほとんど版画にしか見えない自然主義が透けて見える牧歌的なゴム印画による作品などが展示された。
なかでも目を引いたのは、展示会場入ってすぐの壁に掲示された明治末年作とされる「雨の小川」だった。図録には収録されていない作品で、金箔を捺した掛け軸に貼り付けられるという衝撃の状態で掲示されていたが、いま見ても十分独創的で展示の巻頭を飾るにふさわしい作品だった。「雨の小川」は、里山(今でいう郊外)に懸けられた木橋を小雨が降っている状況で横位置で撮った写真だ。背景はソフトフォーカスで徹底的にぼかしながら、橋の欄干や手すりの部分とその手前に茂る草地はくっきりと写実されている。つまり、背景の山々はあたかも水墨画のように霞がかかったように表現しながら、構図の手前側に位置する橋の欄干や草地は写真術で精緻に描写することで、絵画の伝統技法である水墨画とモダニズムの落とし子である写真術が一枚の構図中に共存している。これが明治末年制作であるとは驚きだ。
また、日高を含めた愛友写真倶楽部はゴム印画技法による自然風景作品を数多く残しているが、日高のゴム印画作品は他の作家の作品よりも際だってソフトであり、その画風はアニメーションの技法の一つであるロトスコープ(*2)に近い印象を受ける。当時、ロトスコープはアメリカのフライシャー兄弟によって発明されたばかりで、名古屋に居た日高がそれを知っていたかどうか定かではないが、ネガの乾板に鉛筆でハンドレタッチを施していた日高の技法と、人物の動きを写真で撮って手描きでトレースするロトスコープとが、技法的に近いのは興味深い。日高は1926年に43歳で早世するが、もし活動期間がもっと長ければ、ピクトリアリスム時代の作家という評価に収まらない、独自の世界観を開拓する写真作家になった可能性があったのではないか、と筆者は妄想する。

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fig.03 ソフトフォーカスを使った日高長太郎の作品「朝の小川」(上、1912年)と「日没」(下、1915年)
※ 展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より

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fig.04 日高長太郎のゴム印画作品「松の木立」(1925年)
※ 展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より


戦前のアジテータ・坂田稔と早すぎた天才・下郷羊雄

続いてⅡ章とⅢ章で紹介されている坂田稔と下郷羊雄について語りたい。下郷羊雄(1907-1981年)は岡本太郎とも親交のあった名古屋在住のシュルレアリスムの画家で、写真家としても活動し、写真集『メセム属』(1940年、私家版)を出版している。坂田稔は、日本写真史におけるアマチュア写真作家の有力な集団であり、関西でピクトリアリスムを牽引した浪華写真倶楽部に所属したのち、1934年に名古屋市内に転居。カメラおよび写真感材を扱う「ジャパン・コダック・ワァク社」を経営する傍ら、「曙写真倶楽部」「ナゴヤ・フォトアバンガルド」を結成、ここに下郷羊雄や愛友写真倶楽部に参加したシュリレアリスト・詩人の山本勘右らが参加する。
坂田は写真店を経営し、写真術の教宣活動を熱心に行ったことからもわかるように多才な人物で、写真雑誌にも写真論を寄稿したり各地で写真表現に関する公演を行うなど、1930年代後半の表現写真界におけるアジテータとして活動していたようだ。当時の坂田の活動を知る事例として、「写真の都物語」展とほぼ同時期に福岡市美術館で開催された福岡の前衛写真集団「ソシエテ・イルフ」を紹介する「ソシエテ・イルフは前進する」展の図録に、1939年に坂田が福岡で公演を行った折にソシエテ・イルフのメンバーと会合をもち、その場で彼らの活動に社会貢献への意識が薄いことを厳しく批判したという記録が掲載されている。当時の坂田は、1920年代のドイツの新即物主義や前衛美術の影響を受け、前衛写真を先導する使命に駆られていたようで、Ⅵ章に登場する福島辰夫(*3)やのちの中平卓馬のような写真評論家でありアジテータの役割を担っていたようだ。
筆者は、アジテータとしてではなく、写真作家としての坂田に興味を覚える。坂田稔は1939年までは前衛写真家として活躍するが、突如1940年に民俗主義、翌41年には報道写真へ「転向」する。同時に前衛写真を標榜してきた「ナゴヤ・フォトアバンガルド」は解散することになる。前衛写真時代の坂田の作品は、写真表現が成熟した現代の視点から見ればいささか興ざめするというか、正直写真学生でも作らないような実験レベルの作品だが、民俗学や民藝へ接近し、そこから吸収して得たものを前衛主義と融合させた1940年前後の作品には一見の価値があると思う。
「竹に取材せる」(fig.05)、「農民家屋に就て」(fig.06)など民藝的な要素から抽象的な美を抽出したとされる作品は、素性は異なるが石元泰博が桂離宮に見出し実践した日本的な美意識とモダニズムの融合に先んじていたと思える。むしろ、シカゴのニュー・バウハウスで写真表現を学んだエリートの石元よりも、独学で海外の情報を収集して自らの写真論と表現を鍛え上げた坂田にシンパシーを感じる。報道写真に転向したのちの坂田稔の活動について、図録では海外宣伝報道要員として徴用され、ジャワで活動、復員して名古屋に戻ったがかつての仲間と写真活動を再開することはなかったと記載されている。それが事実とすれば残念至極だ。
下郷羊雄については、「ナゴヤ・フォトアバンガルド」最大の成果としての『メセム属』(fig.07)の出版が、彼の写真活動のすべてを物語っている。「ナゴヤ・フォトアバンガルド」が目指した表現の臨界点が、この一冊にあったと言っても過言ではないだろう。そもそも画家であった下郷が、写真に注目して表現の手段として用いて写真集に結実させた経緯は興味深い。当時の写真は、現在のCGやメディアアート以上の新鮮さをもって芸術家たちの心を捉えたかもしれないが、冷静に多肉植物の写真でシュールレアリスムを表現した下郷の洞察力は賞賛されるべきであり、ある種の偉業ではなかったろうか。実際、下郷が遺した『メセム属』は、近年高く評価されている。筆者は、世界最大規模のフォトマーケットであるパリフォトの会場で、同書が一冊数百万円の高値で売買されているのを見たことがある。こうした光景を見るにつけ、早すぎたという言葉で片付けるにはあまりに惜しい才能がかつてこの国にあり、生前に栄光を受けることなく喪失した事実をつくづく残念に思うのだ。

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fig.05 坂田稔「竹に取材せる」(1939-40年頃)
※展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より

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fig.06 坂田稔「農民奥屋に就て」(1939年)
※展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より

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fig.07 下郷羊雄『超現実写真集 メセム属』(1940年)
※展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より


時代の「分岐点」であり「分裂」を抱えた写真家、東松照明

戦後写真の巨人とされる名古屋出身の写真家・東松照明は、本展Ⅴ章において単独で展示スペースが割かれ、その作品が紹介された。名古屋市美術館ではすでに2011年、「写真家・東松照明 全仕事」展が竹葉の企画で開催されているが、今回は展示に東松を組み込むことによって、本展のテーマである「名古屋写真運動史」を際立たせている。ポイントは、東松を戦前と戦後の写真史を接続する存在として扱うのではなく、「分岐点」として取り上げたことだ。一般に日本の写真史における戦前と戦後の表現の分岐にまつわる言説として、アマチュア写真家たちが主導した表現主義=ピクトリアリスム写真から国家全体主義の台頭を背景に報道機関が主導するリアリズム写真への移行する事例として、日本工房の名取洋之助や土門拳、木村伊兵衛の業績が語られることが多いが、本展キュレーターの竹葉は東松照明を「名古屋写真運動史」における世代の分岐点に位置づけることで、Ⅵ章で紹介される全日本学生写真連盟の活動につなげている。竹葉は、表現写真を駆逐したリアリズム写真が戦後日本の写真表現を先導したという言説を由としないのだろう。竹葉はリアリズム写真の中心人物だった土門拳や木村伊兵衛よりも、彼らより若い東松を戦後の写真表現の功績者として上位に位置づけており、筆者もこれに同意する。実際、東松を中心にリアリズム写真に対抗して「現代写真」を志向するVIVO(*4)が結成されたわけだし、その活動がプロヴォーク(*5)の活動へ繋がったことを考えれば、竹葉の意図には十分説得力があると考える。
展示作で、東松の初期作品の一つ「混血児」(fig.08)を取り上げていることが興味深く、また意味深に感じた。1930年生まれで終戦時15歳、少年から大人になる「分岐点」の年齢だった東松もまた、戦前の日本的な精神と戦後米軍が持ち込んだ資本主義由来の精神という二つの精神の断裂を抱えた「混血児」だったと思うからだ。あくまで筆者の仮説ではあるが、東松は戦時中に勤労動員へ駆り出された経験をもち(*6)、戦後は占領軍が持ち込んだ資本主義由来の文化が纏う自由の空気に触れている。このことは、東松にVIVOで「現代写真」を指向させる原動力になったが、VIVO解散後に沖縄と長崎へ向かわせる「転回」の理由もここにあったのではないかと考える。東松がそのように語った記録はないし、あくまで筆者が状況証拠的に推測した仮説ではあるが、VIVO時代に新しき表現手段としての写真を模索した東松と戦時中の記憶を取り戻すかのように沖縄と長崎に足繁く通い「太陽の鉛筆」をものした東松との間にある乖微妙な温度差を説明するには、そこに至るまでの東松の人生において、彼の精神の内面に影響を及ぼした何らかの乖離や断裂があったのではないかと考えるのが自然である。そして、東松の二つに分裂した精神が示唆的に生み出した作品が「混血児」ではないだろうか。名古屋写真史の「分岐点」であり、戦前と戦後二つの時代の精神の「混血児」である東松の活動は、好むと好まざるとに関わらず次世代の作家たちに影響を及ぼしていくことになる。

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fig.08 東松照明「混血児」(1952年)※展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』より

「写真を巡る青春の模索」とその実相

「写真の都物語」展最終章のⅥ章では、大学や高校の写真部の学生たちが組織した全日本学生写真連盟の影響下にあった中部学生写真連盟に属する大学と高校の写真サークルの学生たちの活動が取り上げられている。これは美術館における写真展としては異例というか、ほとんど初めてスポットが当たるもので、名古屋市内の高校や女子大の写真部のメンバーによる集団撮影行動の記録と写真集による成果が取り上げられている。集団撮影行動とは、1960年代に前述の写真評論家・福島辰夫の指導のもと、全日本学生写真連盟が中心となって推し進めた「自らの問題意識のもとに日本各地を学生写真家たちが撮影する」という写真的集合知とも言える運動だった。本展では、名古屋女子大学写真部のメンバーによって撮影され、最近当人たちの手で写真集としてまとめられた『郡上』(2016年、名古屋女子大学写真部OG )、名古屋電気高等学校写真部の石原輝雄や杉浦幼治らによる写真集『大須』(1969年、私家版)、そして福島辰夫によって編集された兵庫県立尼崎工業高校写真部の高橋章の写真集『断層ー現代高校生の記録』(1974年、株式会社491)などが展示された(fig.09)。また、全日本学生写真連盟の成果として、当時激しかった学生運動のリアルな現場(1968年10月21日の国際反戦デーに呼応して世界同時多発的に起きたデモ)を間近で記録した写真集『10.21とはなにか』も展示された。
注目するべきはやはり、高校生の写真として紹介される高橋章『断層』と、女子大生が岐阜県群上で行った集団撮影行動の記録である『群上』であり、この二作品を「名古屋写真史」に織り込んでみせたことだろう。彼らの「曇り無き眼」で撮られたというべき、ストレートでピュアな問題意識に満ちた作品は、土門らが唱え当時の写真界隈で幅を利かせていたリアリズム写真の作品および言説を瞬時に霞ませるほどに新鮮で、純粋なまでに写実そのものであった。それは政治の時代が訪れる前、1950年代に東松照明らがVIVOで模索・実践した、現代写真の発展的継承とも言えるだろう。学生たちが残した写真集に、VIVOが発足するきっかけとなった「10人の眼」展(*7)をプロデュースした福島辰夫が関わった事実はきわめて重要と思われる。将来的に、日本の若手写真の研究対象としてもっと踏み込んだ調査がなされるべきテーマだろう。

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fig.09 名古屋市美術館の会場物販コーナーで販売されていた高橋章『断層ー現代高校生の記録』(右、1974年)と名古屋女子大学写真部のOGによって写真集としてまとめられた『郡上』(左、2016年)

まとめー「写真の都物語」展に見る可能性について

以上、私見に満ちた「写真の都物語」展の展評であるが、「名古屋写真史」という枠というかフォーマットを創り、その中に高い密度と量をもつ情報を詰め込んで展覧会にまとめ上げ、さらにこの仕事を高い編集技術と筆力で図録に落とし込んだ学芸員・竹葉丈の手腕には、今回も敬服させられた。一地方美術館員の仕事量としては、予算的にもマンパワー的にも過酷であったことは容易に推察される。それだけに、2020年4月以降世界を覆ったコロナ禍によって二カ月あまりの短い会期を余儀なくされたことは、かえすがえすも残念だ。図録は充実したものとして残されたが、これと対になるオリジナルプリントや研究対象となるプリント(遺された乾板から生成されたニュープリント等)の展示を手元で見られないというのはなんとももどかしい。検討の余地があるならば、他館への巡回やWebで展示プリントのアーカイブを閲覧できるサービスを希望したい。
「写真の都物語」展の意義を考えると、東京以外では大阪や神戸などの関西エリアに埋もれがちな名古屋の写真運動に光を当て、満洲写真史の時と同様に知られざる写真家たちとその作品および作家どうしの交流を綿密な調査で描き出した点にあると思われる。その中で、日高長太郎や坂田稔、下郷羊雄ら戦前の作家たちの活動にあらためて注目をし、東松照明の作品を名古屋写真という視点で観測し、新しい試みとして1970年前後の学生たちの写真活動を掘り起こすことで、現代につながる若者たちの青春の模索というテーマを付け加えることに成功した。個人的には、近年の考古学と同様、文献だけでなく証拠となる資料の発掘と徹底した調査によって、写真史の微分・細文化はまだまだ可能であることと、現代社会や文化空間の状況と照らし合わせることで、新しい価値を見い出せることを証明した点にあらためて感銘を受けた。
また、竹葉がそのキャリアの中で一貫して行っていることでもあるのだが、作家と作品の“コミュニケーション”に着目して、写真家どうしの交流や所属したグループの活動変遷を調査して作家性の変遷や作風の継承に関する情報を掘り起こしたり、作品の履歴(所蔵の変遷や作品そのものの行方)を遺族への訪問調査で明らかにすることで、作家・作品情報に対して継続性を持たせている点も見逃せない。写真や写真作家の新たなスタイルや才能を発掘し投資と育成に心血を注ぐことのみを追い求めるよりも、竹葉の仕事のように現代の視点で無数にある過去の写真作品を腑分けし、徹底した調査や事実関係の掘り起こしを行うことで、作家とその作品への理解を深めることのほうがむしろ将来性があり、写真表現を重層化させることに繋がるのではないかと思う。
さらに、事象を感情ではなく情報として見ることができるマニア・オタクという世界規模で増えている新しい消費者層は、竹葉が提示する緻密かつコミュニケーションに着目した情報処理を施したうえで内容が充実した図録を出版する、という手法を受け入れる可能性が高いと思われる。このことは、なかなか純粋主義から抜け出せないがゆえ、あるいは現代美術への接近を図ったものの志半ばにコロナ不況で国内で客層が広がらない日本の写真界において、一つの希望として捉えてもよいのではないか。「写真は美術にすり寄るのではなくオタクにすり寄れ」が、本稿の結論でもある。あと、図録はおすすめで必買いです。 <了>

文中注釈

*1 ゴム印画技法とは銀塩写真の印画紙のゼラチン・銀の代わりに、アラビアゴム・顔料・クロム酸カリウムを使って紙に像を定着させる写真技法である。銀とゼラチンを使うよりもソフトで絵画的な画像を得られるのが特徴。

*2 アニメーション黎明期にマックス・フライシャーによって考案された、モデルの動きをカメラで撮影しそれを手でトレースしてアニメーションにする手法。

*3 福島辰夫は1928年生まれの写真および美術評論家。2017年没。東京大学文学部美学美術史学科卒業後、瑛九の「デモクラート美術家協会」に参加。1950年から写真評論家として活躍し、当時の若手写真家の発掘と育成に辣腕を振るう。1957年に「10人の眼」展をオーガナイズしたほか、1965年に明治大学カメラクラブの顧問に就任、同クラブのメンバーであり全日本学生写真連盟の委員長だった三崎徹を介して全国の学生写真の指導者的役割を果たす。著作集に『福島辰夫写真評論集 第一巻-三巻』(窓社、2011−2012年)がある。

*4 VIVO(ヴィヴォ)、1959年7月から1961年6月まで存在した写真家集団。メンバーは、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公。

*5 中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦によって1968年11月1日に創刊された写真同人誌。1968年11月1日創刊。「思想のための挑発的資料」という副題が付けられた。同2号から森山大道が参加。3号まで発刊され、総括集「まずたしからしさの世界をすてろ」で休刊。

*6 終戦直前、東松照明は中学3年生だった東松は、家族が疎開しひとり残された名古屋市内の自宅から勤労動員で鉄工所に通い、軍事教練にも駆り出された。日々同世代の若者と喧嘩に明け暮れた日々だったという。「NHK戦争証言アーカイブス あの人の戦争体験」より(https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/anohito/?kana=01)

*7 1950年代に写真批評家の福島辰夫がプロデューサーとなり開かれた写真展。1957年5月に第一回展が開催された。参加作家は石元泰博、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也、奈良原一高、細江英公の10人。木村伊兵衛と土門拳が顧問をつとめた「集団フォト」を乗り越える、新たな世代による切磋琢磨の場として期待された。59年の第三回展をもって終了。

参考文献
展覧会図録『「写真の都」物語: 名古屋写真運動史 1911-1972』(国書刊行会、2021年)

展覧会図録『ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画』(福岡市美術館、2021年)

日本写真家協会編『日本写真史1840-1945』(平凡社、1971年)

飯沢耕太郎 artscapeレビュー「写真の都」物語 —名古屋写真運動史:1911-1972—(2021年)
https://artscape.jp/report/review/author/1197769_1838,1,list1,2.html

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