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写真のように 第7回 いまなお続く好敵手と“挑発”の問題

展評 「挑発関係 中平卓馬×森山大道」

終了間際の展覧会、神奈川県立近代美術館 葉山で開催されていた「挑発関係 中平卓馬×森山大道」に滑り込んできた。美術館のある夏の逗子・葉山はあまりに風光明媚な場所で毎回行くのを楽しみにしているのだが、さすがに場所柄、季節柄海水浴客でごった返すことを考えると、盛夏の時期は避けざるを得ないな、などと先延ばししているうちに会期終了目前になり、慌てて東海道線に飛び乗り逗子駅から山裾を這うように走るバスに乗り、逗子マリーナの先にある美術館へ駆け込んだ。

中平卓馬と森山大道の関係についてわざわざ私が語るべきことではないかもしれないが(*1)、今回の展覧会は二人の関係そのものがテーマなので、展評としてはその部分に踏み込まざるを得ない。また、二人の関係は、わが国が生んだ偉大な写真家とその親友だった気鋭の写真・映像批評家の友情伝説として語り継がれているのも事実だ。ここでは、実際に中平と森山を知る者としてこの展示を見て得た感想を2点に絞って書く。1つは本展のテーマでもある挑発関係=好敵手について、もう1つは“挑発”のダブルミーニングである雑誌『プロヴォーク』についてだ。

「無言劇」
二人展は二人の出会ったいきさつを解説するためなのか、冒頭は出会いの作品である森山大道の「無言劇」が展示されていた。胎児のホルマリン漬け標本を撮影した森山のモノクロ写真に対して、中平が「無言劇」という題の短い散文を寄せている。中平が編集員を務めていた批評誌『現代の眼』に掲載されたこのコラボレーションをあらためて見ると、中平の鋭い批評眼と豊かな詩性、森山の冷徹な眼線が幾重にも交差しつつ重層化してゆき強烈な印象を残す。短いながらもバディの初仕事としてはまったく見事と言うしかない出来だと思う。

fig.01「無言劇」写真:森山大道、テキスト:中平卓馬、現代の眼』1965年2月号より

最初の展示で面白かったのは、中平・森山の写真を代わる代わる見せてゆくスライドショーだった。それぞれ写真集や『アサヒカメラ』『現代の眼』に掲載されたモノクロ作品を抜粋して流しているが、ふたりの写真が性質的に正反対なところが興味深い。森山の写真はまず暗闇があってそこに光が差すイメージの「黒地の写真」、中平の写真は白地に墨汁を染みこませるイメージの「白地の写真」という印象を受ける。森山の写真は光が闇を切り裂いて出来ていて、中平の写真は白い紙を黒で染めることで成立しているとも見れる。色彩のシステムに置き換えれば、森山の写真は光三原色のRGB、中平の写真は印刷インクの掛け合わせによるCMYKだ。カメラに置き換えれば森山はデジタルカメラ、中平はフィルムカメラ。あくまでも彼らの初期作品に限った印象だが。

『プロヴォーク』が示したもの
続く展示が、問題の『プロヴォーク』(*2)だ。写真史の鮮やかな転換点でありながら、参加した中平と森山をはじめ日本写真界に呪縛を残すことにもなる歴史的出版物だ。『プロヴォーク』が果たした重要な役割は、写真を「従」から「主」へと転じるきっかけを作ったことだ。それまで新聞や雑誌や広告のなかで「従」の存在であった写真が、「主」となるべく主張を示したのが『プロヴォーク』の画期的なところだった。これまで「従」として写真に求められてきた解像度・美しい画角・正確なピントといった“くびき”を、アレ・ブレ・ボケによって外して、「主」として自由になるべきだと主張した。いわば写真における奴隷解放宣言である。『プロヴォーク』のメンバーの中でも、とりわけ森山大道と中平卓馬の役割は大きかったと言える。二人は若く、野心と情熱があり、知性を備え、そして才能があった。勢いある二人の運動は『プロヴォーク』の紙面に鮮やかな軌跡を残した。

fig.02 写真同人誌『プロヴォーク』(プロヴォーク社、1968-1970)
※写真は2018年に二手舎が発行した完全復刻版

以降の展示では、『プロヴォーク』後の中平と森山の活動に焦点が当てられる。森山大道は写真集『写真よさようなら』(写真評論社、1972)、中平卓馬は映像評論集『なぜ植物図鑑か』(晶文社、1973)をそれぞれ出版する。ここで二人の関係は転機を迎える。森山は『プロヴォーク』を継承するが如くアレ・ブレ・ボケを続け、中平はこれまで撮影した自作のプリントとネガを焼き、文筆業に軸足を戻す。そして1977年、決定的な転機が訪れる。中平は『決闘写真論』(朝日新聞出版社、1977)を出版直後に自宅で泥酔・昏睡後に記憶を失い、以降は記憶障害に苦しむことになる。森山も『写真よさようなら』以降は80年代に再起動するまで長く停滞の時代に入る。展示ではそれ以降の二人の活動を追いつつその関係も言及しているが、かつてのように二人が共闘することは叶わなくなった。

fig.03 中平卓馬『来るべき言葉のために』(風土社、1970)

挑発関係=好敵手の問題
中平と森山の挑発関係とは実際にどのような関係だったのか。ここでは、二人の出会いとなった「無言劇」と最後の共闘となった『プロヴォーク』に絞り感想を述べたい。まず注目すべきは初コラボの「無言劇」で、森山の写真を見た中平が文章を添えたこの作品こそが若き二人の出会いとその後の関係を象徴していると思う。推測だが、森山の写真を見た中平は化学反応のように即座に素速く「無言劇」を書いたと思う。文字に起こさないまでも、即座にインスピレーションを得たに違いない。思えば、「無言劇」というタイトルも象徴的であり、その後の彼らの関係を表していると思えなくもない。二人はほぼ同時に同じ世界を頭の中で描いていたのであり、写真を媒介に社会に一石を投じてやるとそれこそ血潮が沸き立つ勢いで『プロヴォーク』にも取り組んだに違いない。二人の知性と熱量が『プロヴォーク』に注ぎ込まれた結果この同人誌が異様な熱量を帯びたのであろうし、その前後に発表された森山の写真集と中平の評論集はいまでも輝きを失っていない。まさしく、政治と革命の時代が生んだ奇跡であり、特異点である。ただ、その勢いは彼らの予想を超えた早い段階で停滞する。そのことについては後で述べる。
そして、私に想像できるのはそこまでで、『プロヴォーク』以降の二人の関係に踏み込んでいくのは難しい。結局のところ、彼らの関係は彼ら二人の問題であるからだ。中平から森山との関係が語られることはなかったが、森山は中平との関係について、インタビューや後年の中平卓馬の写真集の帯書き等で短い発言や断片的な言葉は残している。ただ、森山一流の控えめで多くを語らない言質からは本質的な部分を掴みにくい。
こういうときは第三者の証言に頼るのが一番と思うので、中平・森山と交流がありその作品を評論してきた編集者の西井一夫(*3)の言葉を引用したい。西井は、森山大道の作家的性質について興味深い記述を残している。

実際は極めて礼節ある心優しい人である森山の「怖さ」は、人間に対する「よそよそしい」までの突き放した考えに基づいている。人間に対して距離を置く生き方、それは格別に人間不信とかいうものではないだろう。しかし、人間は裏切り、騙し、逃亡する身勝手な存在にすぎない、とする諦念が若い時から森山の体質に染み着いている。信ずるに足るものとしては、人間を信用していないのだ。ヒューマニズムなどという歯の浮くような代物を一度足りとも信じたことのない、冷たく、しかし、優しさに満ちた眼がある。 

『週刊読書人』 1999年12月24日号

中平卓馬は2015年に逝去しているので、今回の展示は森山大道の主導で中平の遺族の同意を得て開催されたものと思われる。そして、森山大道の本質は西井が評した一文に集約されていると思う。なので、森山の視点から二人の関係を読み解くのは可能であろう。森山にとって中平は唯一自分と同じ眼と言葉を持つ人物であり、それゆえの好敵手なのだろうと考えられる。西井の評はほぼ中平のそれにも当てはまるのではないか。ただ、その関係は挑発関係というよりは、共闘関係に近いかもしれない。それは『プロヴォーク』後の彼らの行動が物語っているように思う。すなわち、森山が『プロヴォーク』の続きで『写真よさようなら』を出版したことと、中平が写真を焼いて文筆の道に戻った彼らにとっての原点回帰こそがそれを証明しているのではないか。

fig.04 中平卓馬「Adieu a X」(1988) のオリジナルプリント展示

そして『プロヴォーク』の問題
中平と森山、二人の物語は筋書きのない複雑な世界を生きた生身の人間ゆえの挑発・共闘関係と結論づけることはできるが、『プロヴォーク』は写真史上というか美術史上の転換点として良くも悪くも影響力があるので、むしろこちらは一筋縄ではいかない。写真史をひも解くごとにまたここに、『プロヴォーク』の時代に戻る。それは、『プロヴォーク』の功績として称えられる「「従」から「主」への写真の解放運動が、予想を超えた早い段階で停滞したためだろう。結局のところ、写真が「従」のくびきを外して「主」になったのではなく、「従」の写真と「主」の写真に分岐しただけだったのだろう。広告や雑誌では依然「従」の写真が要請されていたから、それが現実的な選択だったと捉えるしかない。『プロヴォーク』以降、広告・雑誌・新聞において相変わらず写真は「従」として扱われ続けたし、写真界は「従」の写真を操る者たちが覇権を握り続けた。中平と森山は「従」の写真に背を向け、主権を獲得したばかりの「主」の写真を支援・擁護する側にまわった。特に中平卓馬は、『アサヒカメラ』で誌上で篠山紀信と対決型連載「決闘写真論」を闘い、篠山の写真を相手に苦戦しながらも(*4)写真のための言葉をいくつも紡ぎ出して抗戦した。
個人的な感想で恐縮だが、私は「決闘写真論」で中平が書いたテキストが彼のテキストでは一番熱量があって好きだ。当時は非常に力があったカメラ雑誌というメジャーな舞台で、超一流写真家の篠山紀信と闘ったこの連載で中平が残したテキストは、社会批評を含んだ創造的な写真批評だったと思う。私生活の問題もあり苛酷な闘いを続けたが故に、その才能をすり減らすように過度な飲酒に走り記憶を失ってしまったのは残酷すぎる結果だったと思う。一方の森山は、「主」の写真の先輩・同志である東松照明、荒木経惟、深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」を開催し、そこから倉田精二、北島敬三、石川真生らを輩出することになる。そして、森山は90年代以降、世界的な評価を受ける写真作家の道をひた走っていく。
1990年代に入り、『プロヴォーク』は再評価される。1989年の東京都写真美術館の開館、写真雑誌『デジャ=ヴュ』(フォトプラネット、1990)の創刊等、ようやく「主」の写真を世間が認め始めた時代になってからのことだ。ここに至るまでに20年近い歳月が流れている。『プロヴォーク』が早すぎたのか、社会が追いつくのが遅すぎたのか判断は外部に委ねるが、社会における写真の位置づけと扱いが日本社会の好景気の時代に至りようやく変化し始めたのは喜ばしいことだった。その立役者たる『プロヴォーク』のメンバーが直接その恩恵を受けることが無かったのは残念であるが。

歴史化が必要な理由
それを承知で私はこの時代の話をさっさと歴史化して、度々都度ゾンビのように立ち上がる『プロヴォーク』問題を解決するべきだと思っている。『プロヴォーク』自体が復刻されはしたが、あくまで研究者の資料という体であってAmazonで手軽に入手できる書籍ではないし、時代の転換点ではあるものの、意図してそうなったのではなく偶発的な要素が左右したと考えるからだ。さらに言えば、『プロヴォーク』を知らない・読んでない・持っていないことで、若者たちがSNSや写真酒場で前時代のおじさんたちからマウントを取られたりパワハラの被害を受ける機会を最小限に抑えたいとも思う。『プロヴォーク』歴史化を促進するためにも、『プロヴォーク』の誕生から終焉に至る周辺の物語、あるいは森山大道の著書『犬の記憶』をNetflixでドラマ化するとか、あるいはマンガ原作に落とし込んだのちアニメ化するといった映像化の方向で進めるのがよいと思う。映像化された『プロヴォーク』と中平・森山の物語を、若い世代が見て楽しみ、知識として学ぶほうが、後世にとってはずっとよいことではないかと思う。 (了)

ig.05 森山大道『Nへの手紙』(月曜社、2021) より

展覧会情報(すでに終了)
題名: 「挑発関係 中平卓馬×森山大道」
会場:神奈川県立近代美術館 葉山
会期:2023年7月15日(土)〜9月24日(日)
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2023-provocative-relationship
主催:神奈川県立近代美術館
企画協力:一般財団法人森山大道写真財団、オシリス

文中注釈
*1 中平卓馬(1938-2015)は写真・映像評論の世界に足跡を遺した文筆家・写真家。森山大道(1938-)は、85歳の現在も撮り続けて世界の写真表現に影響を与え続けている写真家。同じ歳の二人は、1964年冬に両者交流のあった写真家・東松照明の紹介で出会った。当時、中平は批評雑誌『現代の眼』(現代評論社)の編集者で、森山のホルマリン漬け胎児標本写真に、「無言劇」と題した文章を寄せて掲載した。これが縁でともに逗子で暮らしていた中平と森山の半世紀にわたる交流が始まった。

*2 『プロヴォーク』(provoke)は、1968年11月に中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦によって創刊された同人誌。「思想のための挑発的資料」という副題が付く(扉に記載)。発行はプロヴォーク社。1969年3月に発行された2号から森山大道が参加、1969年8月発行の3号と1970年3月発刊の総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店)で終刊する。わが国において最も政治運動が頂点に達した60年代末において、時代の空気を写真側から照射することで政治と文化を鋭く批評した。同人誌の枠を越境した批評誌でもある。刊行後直ちに反応は鈍かったが、じわじわと写真表現を志す若者に浸透し、のちに伝説的な雑誌となる。当時のオリジナル本は稀少本ゆえに高騰したが、2018年に古書店・二手舎が完全なかたちで復刻(現在も発売中。https://www.nitesha.com/)。

*3 西井一夫(にしい・かずお、1946-2011)は、東京生まれの編集者、写真評論家。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞社出版局に入社。『カメラ毎日』編集部に所属し、1983年から1985年休刊まで同誌編集長を務める。1989年、自身の主催で「写真の会」を立ち上げるなど写真評論家としても活動。著書に『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)などがある。

*4 当たり前の話だが、雑誌の誌面上においては写真と文章では情報量と作業量において圧倒的な差がある。単純に、1枚の写真を文章で完全に説明するのにどれだけ文字量が必要なのかを考えれば容易に想像がつくだろう。1枚の写真をひと言で言い表わそうとするのであれば、それはまったくの「大喜利」である。彼らの勝負は「決闘」であり「大喜利」ではなかったのだから。

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