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#ジオパークで生きる人05|変化していく海の環境を、変わらぬ情熱で「食の恵み」に。

はじめに
今回お話を伺ったのは、西ノ島町で「鮨あいら」を営む 扇谷 博志(おおぎたに ひろし)さんです。隠岐は暖かい対馬暖流が北上する場所に位置しているため、豊かな漁場に恵まれています。古くからも海産物の産地として重宝されてきた隠岐の海。その幸を活かしながら鮨屋を営む博志さんが今感じている変化とは、一体どんなことがあるのでしょうか。

扇谷 博志(おおぎたに ひろし)さん。
今年2022年にオープンした鮮魚店「この海は、ひろし」の前で。

一度、島を離れた少年時代。
 俺は西ノ島の出身だけど親の事情で小学二年生の頃か、一回この島を出てるんだ。そこからは何度か住む場所を変えて、神戸に住むことになった。一緒に暮らしてた母親は片親で仕事で夜遅くなることもあったけん、よく俺が晩御飯作ってた。おかずだけ宅配してくれるようなサービス使って、メニュー見ながら作ってたな。その時から料理するのは全然苦痛じゃなくて楽しいくらいだったかな。最初に鮨屋に憧れたのは小学校五年生の時だった。神戸の垂水区ってところにある駅前の鮨屋に通ってたんだよ。そしたらその鮨屋の兄ちゃんがかっこよくてさ。気が付けば俺も「鮨屋やりてえな」って思うようになってた。

博志さんのこだわりがぐっと詰まった「鮨あいら」。
木を基調とした店内は暖かい雰囲気です。

6年ぶりに帰った故郷で夢を定め、成長する。
 「じゃあどこで鮨屋しようか」って思いながら帰ったのが中学二年生の時、西ノ島だった。すぐ悪さしてたから担任の先生に「お前このまま神戸おったらロクな人間にならんから島に帰れ」って言われてまた西ノ島に帰ることになったんだ。今は浦郷の港にはフェリー止まらんけど、その当時は浦郷にも船がついたんだわ。もうすぐ港にフェリーが着くってところで「俺はここだ」って決めたんだ。直感だろうなあ。

「俺はここに帰ってきて鮨屋しよう」って中学二年生で決めたんだよ。

 俺が帰ってきたくらいの時はもう観光客がすごかったんだ。お土産屋さんも沢山あって、賑やかで、なんていうか空気が違った。人口も今より多かったから中学校だったら一学年で60人くらいか。内航船も昔は何個か止まる場所があったんだよ。入り組んだ湾のところにある場所だったら、乗りたかったら旗を立てるんだ。もし旗がなかったら内航船は奥まで行かず湾内を浅く回ってぶーんって去っていく。 
 あとは田んぼも今は一軒あるだけだけど、昔は田んぼが広がってた地区もあったんだ。そう考えれば今と全然違うなあ。 

埋め立てが進む別府港の様子。
博志さんの子供時代と比べて整備が進み、港周りは変化を続けています。

 そっから高校もほんとは松江の調理科があるようなところに行きたかった。けど先生に「お前が松江なんか行ったら悪いことして卒業できなくなるんやからだめや」っていわれて地元の島前高校に進んだんや。俺の代は全部で60人…いや63人だな。全然勉強しなかったのに下に3人おるわ!やったわ!ってテストの順位表みて思ったのを覚えてるからな。

寿司職人見習いの優等生になった。
 高校卒業しても一貫して「鮨屋の職人になること」が俺の将来の道やったから勉強するために大阪に出た。ちょうどバブルが終わるぐらいの頃でもう地方のポンコツばっか集まとったけん、みんなすぐ辞めるんだよ。俺は一切遅刻せんまま色んなこと学んで、店入ってから3年目で店長になったんや。そこから更に勉強したかったのもあって環境を変えて何店舗も巡ったけど大体は寿司割烹っていわれるようなお寿司と懐石料理を扱う店が多かった。やから煮物作ったり焼き物焼いたりすることも多くて、和食は全部できるようになって帰ってきたな。

最初に出てくるお造りは、見た人をぱっと惹きつける鮮やかな色使い。
お魚の新鮮さにも心躍ります。

 西ノ島に帰ってきてからは当時島に新しく出来たホテルのオープンスタッフとして声がかかり、そこで料理人として働いた。けど俺の子供時代からの夢はずっとぶれずに西ノ島で鮨屋をやることだったけん、ようやく自分の店を開いたんだ。

対面のカウンターではお客さんとの会話も弾みます。
この日は息子の亜羅さんも訪れ、嬉しそうな博志さんでした。

大切な我が子を想って、開いたお店。
 名前は「鮨あいら」。息子の名前が由来だ。息子が3歳の時にオープンしてそこから今まで20数年続けてきてる。俺は自分で魚も釣るけん、店で使うのは自分で釣った魚にプラスして鮮魚店で仕入れた魚も使う感じだ。店で使う魚は熟成させるために一週間熟成させる。自分で漁にいけばどうしてもそれだけで半日は潰れるけど、一回行けば一週間は魚屋さん行かなくていい。やけん上手く釣りと熟成のサイクルが回るように合間を縫っていくようにしてたな。

お店に飾られているのは、博志さんが釣ってきたお魚で作られた魚拓です。

 今年2022年は新しく「この海は、ひろし」っていう鮮魚店も開いたんだ。この店の名前をつけてくれたのは息子の亜羅なんだよ。いい名前だよなあ。それからここを始めるにあたって漁協の入札権がもらえた。やけんここ始めてからは忙しくてなかなか漁に行ける機会は減ってるが、変わらずどっちの店でも並ぶのは朝一番で仕入れた新鮮な魚だ。

握りだけでなく、その前に出るだし巻きや煮付けも魅力の一つです。
カウンターごしの博志さん、笑顔がちらり。

島の周りにやってくる魚たちのこと。
 魚は当然だけど季節とか天気によって取れる種類や量は変化するもの。例えば春時期は鯛、梅雨時期はイサキ、夏前にアカミズ(キジハタ)、今のこの冬シーズンは青物が多いな。それでもずっとこの西ノ島で魚を見てきた身として感じるのは、「取れる魚の種類が昔と変わってきてる」ってことだ。アカハタやイシガキダイも最近よくみるけど、昔はいなかったんだ。やっぱり今と比べて海水温は低かったから魚が越冬しなかったんだわ。でもだんだんと上昇してるんだろうな、海流に乗ってこっちまで越冬した魚が来てる。
 それに島の周りってエサが豊富だけん一回来ると居つくんだよな。隠岐は海流もいいし流れも良い。あとは食物連鎖がきれいに成り立ってるんだと思う。山から流れた栄養分の高い水が海に流れ込むからプランクトンも育ちやすいし、それを食べる魚も大きく育つ。それでイシガキダイも2kgくらいのやつ最近見るようになったし、ブリらへんも3kgから8kgまで幅が出るようになった。

こちらはヒラマサ。
アジ科ブリ属の一種で一般には高級魚と言われますが、隠岐の海鮮ではよく見かけるお魚です。

 それでも魚の漁獲量が減ってるのは確か。昔は西ノ島も漁師さんいっぱいおったけど、どうしても高齢化が進んできてて若い漁師の成り手が少ないっていう現状はあると思う。大きな船を持ってるわけではない小漁師さんが「漁師」っていう職業だけで食べていくことは結構難しい。時化たら無理やけん毎日船を出せるわけやないし、漁に出ても確実に水揚げがあるわけやない。寿司屋の大きいチェーンやと安定して提供するために自社での養殖に力を入れてるところも出来てきたし、サーモン・うなぎ・カンパチ・ハマチ・マグロなんかは外国産も多い。漁師さんはこれからは魚とるんじゃなくて育てる時代に変わるんじゃないかって感じるくらい、変化はしてるね。

こちらはフグの握り。
「毒が入ってるかもしれんけん、気を付けろよ!」という悪い冗談で周りをびびらせていました。(もちろん入っておらず歯ごたえと上に載っているたれが絶妙で美味しいです。)

これからもこの島の寿司職人として、生きていく。
 俺の店もコロナの前と後じゃ客層がガラッと変わった。昔は地元:観光客なら8:2くらいで、あんまり観光客は入ってなかったな。それがコロナで地元の客がパタリと来んくなった時期もあって、今年の夏とかは観光客の方が地元より多かったかもしれん。でも寿司=高いっていうイメージがあって、意外と食べてくれんのが難点だ。まだ食べに来たことないやつ、ここまでの話聞いたら食べたくなるんじゃないか?(笑)

鮨あいら名物のあいら巻き。
まだ時間あるか!と言って締めの茶碗蒸しの前に出してくださいました。

 来てくれたら美味しいの出してやるから、一回食べにきてみろよ。

おわりに
 
博志さんが作るお造り、煮物、握り、茶碗蒸し…美味しいのはもちろんなのですがそれ以上に食べた人をファンにさせる力があると思うのです。ちょっと強面の外見からは想像しないような繊細で柔らかく凛とした雰囲気のお料理の数々。「お腹いっぱい。」となる頃には地元の方が足繫く通う理由が分かるのではないでしょうか。
 小道に暖かい明かりが見えたらそこは「鮨あいら」。西ノ島を訪れた際には、博志さんと博志さんが作り出すお料理に出会えますように。