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創作なんて

自分は、孤立感からの逃避の手段として「集団への同調」を放棄した。
だから今、季節労働者としてプラプラしている。
そうして、創作という手段で孤立感からの逃避を試みている。
しかし、自己表現を追及し対象との同一化を試みることと、その創作物が多くの人に受け入れられ、生活できるだけの金を産むかは別問題だ。
そして自分は、金のために自己表現を妥協することはもうしたくないと思っている。
つまりは、生きていくための金を稼ぐ手段が別に必要だということだ。
その「金を稼ぐ手段」として、なんとなく農業を志している。
日が昇ると働き、日が沈めば道具を片付ける。雨の日には「雨かぁ、嫌だなぁ」とボヤキながら外に出て、暑い日にはできるだけ涼しいうちに作業を進める。
そうした、自然に抗わない、自然を受け入れ、自然と共に生きることに憧れがあるからだ。
そうして、残りの時間を自己表現の追求に充てたい。

ありのままの自分を受け容れ、寝て、起きて、働く自分を認められればそれはとても幸せなことだ。
面白くはないのかもしれないけれど、「創作がしたい」なんて思わない方が苦しみは少ないのだろう。
けれども自分は漠然とした孤立感にいつも付き纏われていて、そういうわけにはいかない。
無理をしすぎない働き方をして、創作で自分を表現する。
それが今の自分が孤立感から逃れるために模索している生き方。

けれどいつか、「愛」をもってこの孤立感から逃れられればという期待も捨てられていない。
創作なんかやめてしまって、寝て、起きて、働く自分を心の奥底から認めて生きられたらどれだけ楽なんだろうと思う。

彼女と自分の違いは、創作で飯を食いたいと想っているか否か。
自分は「働く」ことにもはや抵抗はない。
彼女が創作に専念できるよう働きながら、趣味程度で創作をして、愛を育んでいきたい。
そうすれば2人とも気づけば創作なんか辞めてるんじゃないかと思ったりもするのだ。

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