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マシューという名の花は

 まず、私がこの話を投稿すると決めた理由は、情報共有のためでも、関心を引くためでもない。私は批判が欲しいのだ。「こんなの嘘に決まってる」という嘲笑を。「幻でも見たんだろう」という冷笑を。私が感じた恐怖をたった一行のコメントで壊せるほど明快で直説的な悪口を。そうしないと私はこの恐怖心を永遠に振り払うことができないようで。だから、もしこれを最後まで読む者がいるなら、どうか私の感情に流されず、語に没頭せず、三流怪談小説を読む時と同じ感覚で見て欲しい。
 立川出身である私は何年前から東京23区外のM市で一人暮らしを始めた。都市生活に飽きた私は立川に比べて静かで落ち着いた雰囲気のこの町が結構気に入っていて、特に家から少し離れたところにある大きな公園によく行くようになったのだ。広い芝生と涼しい川筋が特徴的な、自然が美しいところである。私は毎晩そこの川に座って向こうでやってる野球試合を観覧したりしながら時間を過ごしたが、その日は私がいつも座るところに既に他の人がいたので、別の場所を探すことになった。川筋に沿ってずっと歩いていくと、鬱蒼とした森の入口にたどり着いた。そこで初めて公園の広さに気付いた私は、せっかくだから森の中を探検しようと決めたのだ。
 灯りのない暗い森道は永遠に続くかのようにずっと伸びている。人の気配どころか、川の音さえも聞こえない空間を、私は一人で歩いていく。両側にびっしりと並んだ広葉樹が微動もせず私を見下ろしている。風の音も、鳥の音も、足音も、その空間には存在しななかった。 まるで広大な大海、虚しい宇宙、無限の真空。そこを、私は一人で歩いていく。何も存在しないことをこんなにも多くの要素が証明してくれているのに、私はなぜか数十個の目玉に追われてるような奇妙な感覚にとらわれた。当然だが、そんなことは存在しない。存在するのは私の浅はかな想像力だけ。私はいつの間にか自ら自分を恐怖に追い込んだのだ。私は恐怖心を振り飛ばすために走り始めた。

 『ふたば病院』

 私の動きを止めたのはその古い看板だった。なんて異質なものなんだ。そもそも私の目の前に見えるのは、依然として鬱蒼とした森の中で、建物なんかどこにもない。この看板は一体何を指すために、この道の真ん中にぽつんと置いてあるのか。まさか走ってくる私を迎えに来てくれたのだろうか。まさか、この看板が私をここまで引っ張ってきたというのか。非現実的な幻覚を見るようにぼんやりと立っている私の足先を何かが触った。見下ろすと、そこにはリスが一匹いた。真っ白だったが、確実にリスだ。白いリスは身を立て、私をじっと見上げた。そして、言ったのだ。
 「大きすぎる。まあ、偶には大きいモノもいいか」
 このリスは一体何の話をしているのか。いや、それより、このリスは一体どうやって話をしているのか。混乱している私に対してリスはまた言う。
 「君、耳の中に炎症があるな」
 「はい?」
 「まだ小さいが、早く治療しないと後で痛い目になるだろう。今シュジュツした方がいい」
 だから、このリスは一体何の話をしているというのか。ふと、リスの足下にある看板が再び目に入った。ふたば病院。そう、ここは病院なのだ。私は今診察を受けている。私の耳に炎症があるなんて、あまりにも酷い現状だ。炎症があるとこれからの生活もきっと大変になる。でも、このお医者さんがさっそく問題点を把握してくれて、手術まで勧めてくれた。なんと優しくて有能な先生なんだろう。感動した私に向かって先生が手を伸ばす。
 「ついて来い」
 先生が案内してくれた場所は広い芝生だった。森の中とは違って真っ白なところであり、あらゆる生物が白いベッドの上で横になっている。体を丸めて腹痛に苦しんでいるキャベツ、薄い葉で頭をつかんでいるチューリップ、足が捩じれているクラゲ。他にも沢山の生命体がそれぞれの病気を患い、両側に絶えず横になっていた。こんなに多くの患者を、先生は一人で治療して管理するんだ。素晴らしい。こんな先生に手術を受けるようになって、とても光栄である。私は足早に先生の後を追いながら尋ねた。
 「先生はどんな病でも治せるんですね」
 「当然だ。欲しいモノが多いからな」
 「あそこの蝶々は何で入院したんですか?」
 「チョウチョウではない。リンゴだ。歯が腐食していてな」
 「あのカタツムリは?」
 「カタツムリではない。ヒマワリだ。足をひねってしまったようでな」
 私は自分の無知を反省した。あれはチョウチョウではなくてリンゴなんだ。そしてあれはカタツムリではなくてヒマワリで。私は今まで沢山のモノを勘違いして生きてきた。しかし、大丈夫なのだ。このふたば病院で手術を受ければ、私もウマレカワレルはずから。早くシュジュツを受けたい。早くこのうんざりする炎症を取り除いて新しい出発をしたい。
 先生は私を白いベッドに寝かせた。ドキドキ。 先生が手術道具を洗っている間、私は首を回して隣のベッドの生命体を眺めた。ドキドキ。すぐ隣にいるネコも、その隣のイヌも、その隣のタヌキも、その隣のウサギも、皆頭と背中を床につけたまま天井を眺めて横になっている。ドキドキ。形態は違うが、する行動が人間に似ている。ドキドキ。皆、ニンゲンに似ているのだ。ドキドキ。変だ。ドキドキ。何か間違ってる。ドキドキ。奇妙きわまりない。ドキドキ。ドキドキ。ドキドキ。

「今回は花にしようか。まったく新しい花にな。名前はそう、マシューにしよう」

 心臓の鼓動が止まる。精神がはっきりと戻る。体が震える。耳元で白いリスが忙しく動く気配が感じられる。鼻歌が聞こえる。鋭い金具が肌に触れる。それが私の頬に薄い傷をつけるやいなや、私は立ち上がってむやみに走った。さっき森で走ったように。いや、それが森という名前なのか分からない。蝶々が林檎で、カタツムリが向日葵だから。私はもしかしたら地球上の生命体の名前をまったく知っていないかもしれない。名前だけではなく、生命体の始まり、生命体の起源、生命体の誕生も。私は何も知らないのだ。
 その後どうやってそこを抜け出したのかはあまり覚えていない。あれからもう何年も経ったからだ。しかし、その経験で生じた恐怖と疑問は依然として私の中に残っている。私の耳には本当に炎症があるのか。その白いリスがまだ私を探しているのではないか。今この瞬間にもその公園にある森に誰かが食われているのではないか。その多くの生命体は今後どうなるのか。私は一度でも生命体の名前をちゃんと呼んだことがあるのか。もしかしたら、私たちが信じている常識と科学というのは、すべて間違っているのではないか。そのまま手術を受けていたら、私は何のモノになっていただろうか。なぜ私の頬の傷はいまだにも消えないのか。そういう恐怖と疑問が。
 名の知らない花々が雨後の竹の子のように沢山咲く春の日。私は道を歩いている途中に見える花によく話しかける。あなたは何の病気のせいで花になったのかと。

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